その悩み、キリスト教が解決です

 

目次

 

序章 キリスト教の専門分野

 

第一章 「人生の有限性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第二章 「人生の無意味性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第三章 「人生の不平等性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第四章 「人生の孤立性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第五章 「人生の反復性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第六章 「人生の後悔性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第七章 「人生の失望性」の悩み、キリスト教が解決です

 

第八章 「人生の無関心性」の悩み、キリスト教が解決です

 

終章 喜んで生産し、貢献する人生

 

※聖書は、『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。


 

 

序章 キリスト教の専門分野

 

 役割分担による社会形成

 床屋さんには、髪を切りにいきます。床屋さんに行って、「薬をください」と行っても、「お客さん、そんなものはここにないよ」と言われます。

 ラーメン屋さんには、ラーメンを食べに行きます。ラーメン屋に行って、「タブレット・パソコンください」と言ったら、「うちにはあるわけないでしょ」と言われます。

 警察は治安を守ります。警察に行って、「車を直してください」と言えば、「そんなの車屋さんに言いなさい」となります。

 現代ではどんな組織にも、「管轄・役割・専門領域」があります。「この組織は、こういう役割を果たすことで、こういうものを社会に提供するための組織です。ですので、その提供しているもの以外をこの組織に求めてもだめです」という形で、役割分担をしながら社会を形成しています。それぞれの組織には、「専門分野」があり、その専門外のことについては他の組織に任せる、ということで社会が成り立っているのです。

 もし街の小さなラーメン屋さんが、「うちにくれば髪も切れる、パソコンも買える、体も鍛えられる、そういう場所にしよう」と考えたとしたら、恐ろしく非効率的なことになります。デパートならそれでもいいのでしょう。しかし、もしラーメン屋さんのような小さな組織であったのなら、それではどの分野にもエネルギーを集中できず、すべてが「専門的でない中途半端」なものになり、結局「だれの求めにも応えられない組織」になってしまいます。だれもそんなところに行きたいとは思いません。この組織においては、すべてに手が回らないので、ラーメンも、ヘアーカットも、フィットネスも、すべてのクオリティが低くなって社会に貢献できなくなってしまうのです。

 役割分担をして一分野に組織の働きを限定することで、組織は自らの専門的な分野にエネルギーを集中でき、そのことでその組織にしかできない、独自の成果をあげることができるのです。クオリティの高いものを社会に提供できるのです。こうしてそれぞれの組織が専門分野において役割分担してこそ、社会全体が発展していくことになります。

 

 教会は何屋さん?

 ところで、キリスト教会は、一体お店でたとえるなら、何屋さんなのでしょうか。

 あくまでたとえですが、教会に行くとなにを「買う」ことができるのでしょうか。

 教会に行くメリットとは、一体なんなのでしょうか。

 なにをするために、人々は教会に行くのでしょうか。

 どんなお店も、人々のなんらかの「必要」を満たしています。床屋さんなら髪を切ってほしい、警察なら安全を守ってほしい、車屋さんなら車を売ってほしい・・・人々の「必要」や「悩み」を解決します。

では、教会はどんな必要を満たしているのでしょうか。人々のどんな求め、どんな悩みに切り込んで、解決を提供しているのでしょうか。

 この点について、実は多くの人があまりご存じないのではないか、と感じることがたびたびあります。教会では提供できないものを求めて教会に来る方がおられるのです。

 たとえば、うつ病にかかっている方がいるとして、教会の牧師に相談に行くとします。牧師はその方のうつ病を治すことができるでしょうか。牧師は、その方の「病気そのもの」を治すことはできません。教会は病院ではありませんし、牧師は精神科医ではありません。うつ病で苦しんでいて、その病を治したいなら、カウンセリングを受けたり、精神を安定させる薬をもらえる病院に行くべきです。教会に行っても、その病そのものは癒されません。

 お金がなくて生活に困窮されている方がいるとします。教会に行って牧師に自分の生活を支えてください、と申し出たとします。しかし、教会は政府ではありませんので、生活費を差し上げることはできません。教会でお金を差し上げて経済的困窮そのものを取り除くことはできません。そういう方は市役所で生活保護の申請をすることになります。

 子供を育てることができずに苦しんでいる人がいるとします。そういう方が、「自分には子育てが無理なので、この子を教会で預かってください」と申し出たとします。しかし教会は福祉施設ではありませんので、そうした子供を預かって育てることはできません。その場合は、その方は子供を児童相談所や政府機関に連れて行き、相談することになります。

 あらゆる組織に「専門分野」と「役割」があるように、教会にもそれがあります。これに合致していないものを教会に求めても、さきの例でいえば、ラーメン屋に行って髪を切ってください、というようなもので、教会としては求めに応えることはできない、ということになります。教会で受け取ることができるものと、受け取ることができないものがあるのです。教会が提供していないもの、提供することができないものを教会に求めても、それを教会が満たすことはできないのです。

 組織が、なんらかのものを社会に提供するには、「知識・人材・技術・財源・設備・・・」といった様々な専門的なものが必要になります。社会に提供できるにふさわしいだけのものを備えていなければ、当然働きを継続することも、クオリティを維持することもできません。教会は、病院や政府や福祉施設が備えているような専門知識や人材、設備を備えていません。だから、教会ではこうしたものは提供できないのです。

 それでは、教会の専門分野とは一体なんでしょうか。教会はなにを提供することができる組織なのでしょうか。

 「これがなければ教会ではない」という最後のところにまで教会の働きをつきつめた後に残るもの、それは「礼拝」です。

「礼拝のない教会」は教会ではありません。教会であるということは、三位一体の神を礼拝しているということなのです。

教会はいわば「礼拝屋さん」なのです。人々は神を礼拝するために教会に来るのです。教会が提供できるものは、究極にはただ「礼拝」だけなのです。つきつめて言えば、礼拝以外のものを教会に求めても、教会はそれに応じることができないのです。

 

 「礼拝」ってなに?

 では、礼拝とはなんなのか。

 礼拝は「神を拝む」信仰的行為です。

 「神を拝む」ことにどんな意味があるのか。

 「拝むこと」は崇敬・畏敬・尊崇・讃美といった思いを表します。拝んでいる対象に、自分のすべてがかかっている、ということを表現する行為です。すべてにおいてその対象に向けて、自分を明け渡します。そして、その対象と深い結びつきを得ようとこいねがう行為です。

 ここには、三つの要素があります。「拝む対象」について言えば、それは「超越的存在」です。「拝む」ことが成り立つのは、その対象が人間を超えている存在だからです。お店で買ってきたおにぎりを「拝む」ということは成り立ちません。おにぎりは、人間を超えてはいないからです。

しかし、おにぎりの背後で人間を活かしているなんらかの宇宙的な「力」の存在を認めたときには、おにぎりの背後の存在に向かって「拝む」ことは成り立ち得ます。拝む対象は、必ず拝んでいる人自身にとって、自らを超え出ている存在なのです。

 第二に、「拝む主体」についてですが、そこには「自己無化」があります。拝む対象よりも自分の方が偉いのだ、という意識がもしあったならば、拝むことは成立しません。自分自身がその拝む対象と存在として近ければ近いほど、「拝む」という行為からは遠ざかります。「自分」が大きくなればなるほど、「拝む」ことができなくなります。

その対象と比較したときに、自分は遥かにそれに及ばず、ただ無なるものとしてへりくだる以外にないのだ、という認識があってこそ、拝むという行為が成立するのです。拝むという行為には、自分は無であり、礼拝の対象と自分とは隔絶しているのだ、という自己無化の認識が不可欠なのです。

 そして第三ですが、自らを遥かに超え出ている存在の前に、無に等しい自分が立ったとき、拝む対象と拝む主体の間にはどういう関係が成り立つでしょうか。それは、二種類あるでしょう。その対象の前に「恐怖を覚える」か、もしくは「崇敬を覚える」か、どちらかです。

つまり、恐怖のあまりその対象からできるだけ逃れようとするか、崇敬と喜びのあまりできるだけその存在に近づこうとするか、どちらかになります。それは、その対象について礼拝者がどのように認識しているかによります。その対象を、破壊的な存在と考えれば恐怖しますし、慈愛の存在だと考えれば崇敬を覚えます。

 そして、礼拝の対象に対して「崇敬」を抱いたときには、それは恋人に焦がれる熱い憧れのように、その対象と結びつき、可能ならば一体化しようとするのです。その礼拝の対象と自分とが深く結ばれて、溶けあうほどに一つになることを熱望するのです。

 「礼拝」とはこのように、「超越者を認識し、自分を無化し、超越者に結びつこうとして熱望する」行為なのです。キリスト教においては、「三位一体の神との出会いと交わり、つながりを受け取り、深める行為」なのです。

 それでは、こうした「神との結びつき」が与えられることには、どんな意味があるのでしょうか。

 こうしたものが与えられたとして、それには一体どんなメリットがあるのでしょうか。私たちの人生に対して、どんな役割を果たしてくれるのでしょうか。

 これについては、「神との結びつきがない場合」を考え、「神と結ばれたときに、それがどう変えられるのか」を見ていく必要があります。

 神と結ばれていないこと、神と切り離されている人間の現実の全体のことをキリスト教で「罪」と呼びます。

この「罪の現実」がいかなるものなのか、ということが理解できなければ、「神との結びつき」になんのメリットも認めることができないでしょう。「罪の闇」と「神との交わり」の世界がコントラストを作っているのです。

 神との結びつきがないとき、人間は一体どうなるのか。どんな悩みや苦しみがそこから湧いて来るのか。現実にどんな矛盾を経験するのか。そして、神と結ばれたときには、それはどう解決されるのか。

「キリスト教が解決する悩みって、一体なんですか」

 これが本書のテーマです。

「これこれの悩み、キリスト教が解決です」という題でこれから罪の現実とその解決について描いて行きます。「悩み」の部分がキリスト教が専門的に切り込むことができる領域です。こうした悩みが神と結ばれることによって解消されるところに、礼拝のメリット、礼拝にくることの意味があります。いくつかの代表的な悩みを取り上げつつ、それがどう神への信仰において解消されるのか、描いて行きます。

 それでは、ご一緒に見て行きましょう。

 

 

 

 

 

 

第一章 「人生の有限性」の悩み、キリスト教が解決です

 

 「人生の有限性」を知る時

 この地上にあるものは、すべて限りあるものです。無限なものは存在していません。

 持ち物は、すべて有限です。所有している量も有限ですし、所有できる期間も有限です。家に入る家具には限りがあります。やがて壊れるので、取り替えなくてはなりません。所有しているものがどんなに高価なものであっても、車も、パソコンも、楽器も、どんなものもやがて古びてしまいます。

 持ち物だけでなく、私達の能力も有限です。私達にできることには限りがあります。ある人は、運動能力が非常に高いですが、音楽的才能はそうでもないかもしれません。ある人は数学が得意かもしれませんが、外国語はだめかもしれません。ある一つの分野に秀でた人が、他の分野についてはまったくなにもわからない、ということはよくあることです。私達が習得できる知識や技術も、限りがあるのです。

 私達が属している組織もまた、有限なものです。今の時代は、会社の寿命は3年だと言われています。町内会のような組織でも、担う人がいなくなれば動かなくなります。どんな組織も、時間の重みに耐えかねてしまいます。

 また、最も有限性のなかで大切なのは、時間です。私達が生きている時間が限られている、ということです。90年間生きる人もいます。50年の人もいます。幼い頃に命を失ってしまう人もいます。私達に与えられている時間には限りがあります。やがてこの命、つまり与えられている時間は、尽きてしまうのです。

 こうしたあらゆるものすべてに該当する「人生の有限性」を知るとき、私達はなにを思うでしょうか。

 あらゆるものは消えてゆく定めにあります。どんなに隆盛を誇ったものも、やがて衰えていきます。この諸行無常、万物流転の現実を深く味わうとき、「なんとこの人生はむなしいものか」と嘆じる思いになります。

 特に、「大切なもの」を喪失したときに、私達は「人生の有限性」を嫌というほどに知ることになります。恋人や婚約者、配偶者、子供、両親が死んでしまったとき、自分が興した会社が倒産してしまったとき、自分の身体が回復しない病にかかってしまったとき、人生が有限であり、自分もまたやがて消えていく者であることを味わい知るのです。

 

 「人生の有限性」の悩み

 人生のあらゆる事柄が有限である、ということがどのように悩みになるのでしょうか。

 あらゆることが壊れ、消えていくのを目にするとき、私達は「自分もまたやがて消えていくのだ」ということを自覚します。そして、やがて死が訪れて自分も消えるとするなら、自分がこの人生で積み上げたものもまた自分の手元には残らないのです。すると、自分が今なしていることが空しいものに感じられます。

 財産、名誉、地位、権力、美しくて健康な肉体、知識・・・こうしたものを必死でかき集めるのが人生の主な働きですが、このすべてがやがて消えていくとするなら、これらを積み上げることになんの意味があるのでしょうか。人生のあらゆる事柄に限りがあるなら、「無限」には到達することができないとするなら、この人生とは一体なんなのでしょうか。なんのために生まれ、なんのために積み上げ、なんのために消えていくのでしょうか。

 「人生の有限性」はこうした問いかけを心のうちに生み出します。自分の人生には限りがあるということを自覚すればするほど、この人生にどんな目的や意味があるのか、それがわからなくなるのです。

 

 どう有限性に「納得する」のか

 こうした「人生の有限性」の現実にぶつかったとき、この現実を「どう理解し、どう納得すればいいのか」という問いかけの前に立たされることになります。

 時間と共にその問いの痛みを忘れ去ることで、次第に有限性を受け入れて、「納得はできないが、痛みは消えてきた」という形で解決がなされることもあるでしょう。この世には多くの気晴らしをさせてくれるものがあります。テレビを見たり、映画を見たり、音楽を聴いたりしているうちに、「人生の有限性」なんてことを考えても仕方がない、と割り切って、「考えないようにする」という姿勢でこの問いかけを忘れようとする人もいるでしょう。

 しかし、「どうしても忘れられないし、どうしても理解することも、納得することもできない」ということもあります。「自分がどうしてこのような苦しみを味わわなくてはならないのか」と運命を嘆き続けることもあります。

 目の前に立ちはだかる「人生の有限性」を「納得して受け入れる」ためには、なんらかの「思考の流儀」が必要です。

 「人生の有限性」はいわば、「常識的には受け入れられない人生の構造的な矛盾」です。こうしたものを納得するには常識を超え出たような「特別な思考」が要請されます。常識的な世界観では太刀打ちできない以上、「新しい世界観・思考の流儀」を心にダウンロードして、それをもって立ち向かうときに、「納得して受け入れる」ことが可能になるのです。

 こうした「思考の流儀」を示してくれているのが、人類の先達が残してきた「思想」です。哲学や心理学、文学といったものは、私達が現実をどう納得することができるか、そのモデルや思考の流儀を教えてくれているのです。「人生の有限性」のような「納得できない矛盾」に打ち当たったとき、こうした思想が、「納得する」ためのヒントを与えてくれるのです。

 そして、特に「人生の有限性」という事柄については、これに対応するための思考の流儀を教えてくれているのは「宗教」です。

 たとえば、仏教においてはこうした有限性について、「この世は仮象であり、無である。自分の様々な現世への欲望がこうした世界の有限性についての悲しみを生み出しているのである」ということを洞察して、欲望を捨て去ることによって、「有限性の悲しみ」をぬぐい去ろうとします。その方法として、念仏を唱えたり、座禅を組んだりします。「仏教の方法論の方が自分には合っている」という方は、そちらを学んでみられたらいいでしょう。本書では、キリスト教の解決を示していきます。



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