ただキリストを伝えよう ~教会が宣べ伝える唯一の福音~ 

 

 

 第一章 現代の異なる福音

    1 福音は「成功」ではない  

    2 福音は「癒し」ではない  

    3 福音は「イデオロギー」ではない 

    4 福音は「道徳」ではない 

    5 福音は「情報」ではない 

 第二章 教会が宣べ伝える唯一の福音

    1 教会独自の福音  

    2 福音とはなにか 

    3 福音はなにをもたらすのか  

    4 福音をどのように受け取るのか  

    5 福音はなぜ必要なのか  

第三章 福音に根差した新しい生活

    1 福音に根差した成功  

    2 福音に根差した健康

    3 福音に根差した政治  

    4 福音に根差した道徳  

    5 福音に根差した教育  

 第四章 福音的教会の形成

    1 福音を聞く教会の形成  

    2 福音を証しする教会の形成  

    3 福音を広める教会の形成  

 あとがき  

 

※聖書は『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。


 

 

 現代では、いくつもの「福音」が語られているように見えます。

 神に祝福され、この世的に成功の道を歩むことを可能にするという「繁栄の福音」を語る牧師がいます。抑圧され、社会から隔てられた人々の側に立って「差別からの救いの福音」を語る牧師がいます。病に苦しむ人々に「癒しの福音」を語る牧師がいます。聖書の歴史的な事柄を熱心に求めて、歴史的な情報を福音として説教する牧師がいます。

 現代の牧師の説教を聴くと、その背後にある福音理解は非常に多様になっており、「そもそも、福音とはなんなのか」という根本の部分が曖昧になっているとしか思えません。「福音」とは、それを理解する人によっていくらでも多様に解釈されてしまう、そういうものなのでしょうか。福音はいくつもあるものなのでしょうか。「異なる福音」は市民権を与えられ、許容されうるものなのでしょうか。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙のなかで、こう述べています。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです(ガラテヤ1:7)」つまり、「複数の福音」「別の福音」など本来存在しないのです。福音はただ一つしかない。それは預言者が証しし、主イエスが宣べ伝え、主自ら十字架と復活の御業によって確立され、使徒が告げ知らせたまことの福音です。聖書が語っているところの唯一の福音です。これしか福音はないのです。しかし、現代ではこれとは違う「福音」が、「まことの福音」として至るところの教会で語られています。福音が「多神教化」してしまっているのです。「唯一なる三位一体の神」ではなく、別のもの・・・成功、健康、理想社会・・・を「神」として説教する、そのような「異なる福音」がまかり通っています。唯一の救い主が説教されていません。福音が多神教化し、偶像の神を福音として語るものになってしまっているのです。

 なぜ「異なる福音」は生じてくるのでしょうか。このことの大きな原因は、「福音と他分野の諸思想・諸イデオロギーとの混同・混交」にあります。哲学と福音、経営学と福音、医学と福音、政治学と福音・・・こうした「なになにと福音」という形で、福音が他のさまざまな分野のイデオロギー・思想と融合・混交されることで、福音の独自性が放棄・破壊され、福音が本来のものとは異なる別のものに変質してしまうのです。この世の諸思想と妥協し、この世と同盟契約を結び、福音の独自性が放棄されてこの世の主義・主張と混ざり合う。これが「異なる福音」の生まれる土壌なのです。こうして、福音そのものの独自性が失われ、福音の力が失われます。

 現代の教会は教勢の衰退現象に見舞われています。これまでにいろいろな分析がなされました。日本でいえば、神道に根差す日本人のメンタリティと福音の不釣り合い、鎖国や徳川幕府のキリシタン弾圧などの歴史的な要因、今や世界全体を覆い尽くした世俗化の波、悪い意味での個人主義の浸透、教会の信仰の生ぬるさ・・・挙げれば、数々の事柄がありますし、どれも分析として適切である面があります。しかし、教会にとって最も根本的な原因があるのではないか、と思わずにはいられません。つまり、「そもそも、現代においては唯一のまことの福音が多くの教会では語られていないのではないか。そのゆえに信徒が福音を証ししなくなってしまったのではないか」という点にあると思えるのです。牧師の礼拝説教において、「異なる福音・別の福音」が語られることが常態化してしまっている、だから信徒も力が与えられず、福音を証しできないという現実がもし多くの教会で起こっていることだとするのならば、どうでしょうか。もしそうなら、教会が衰退するのは当然なこと・自然なことです。まことの福音が語られていないのならば、それに伴う「主が共にいます」という神の約束が実現されることもありません。教会は必然的に衰退と停滞に陥らざるをえませんし、もしそうであるなら教会は教会ではなくなります。教会は福音によって生きているのですから、その根本である福音が「異なる福音」にすり替えられているなら、教会が現代の困難をくぐり抜けながら生きることは不可能です。

 もし改めて教会が教会としての本質を取り戻し、新たに前進を始めることができるとするなら、それは「異なる福音」から「真の福音」へと立ち戻ることによってでしかありません。この転換がなされて初めて、教会は息を吹き返し、新しい歴史を築いて行くことができるでしょう。しかし、いつまでも「異なる福音」に拘泥し続けるなら、一時どんなに隆盛を誇ったとしても、やがて衰退し始め、ついには消滅の道をたどらざるをえないでしょう。「異なる福音」は神の御心に反しているからです。初代教会の時代から、グノーシス主義、アリウス主義、マルキオン主義、モンタノス主義、さまざまなタイプの「異なる福音」が現れましたが、すべて今では消滅して、歴史の彼方に消え去ってしまいました。「異なる福音」は神の御心から出る時間の裁きによって、消えゆく定めにあるのです。

 そうであるとするならば、現代で市民権を得て大通りを歩んでいるかに思える「異なる福音」もまた、やがて歴史のなかに埋もれ、消えていかざるをえません。「真の福音」のみが、歴史の裁きに耐え、世の終わりまで存続するからです。教会が生きるか死ぬかは、牧師が礼拝で「真の福音」を語っているのか、「異なる福音」を語っているのかによって、また信徒が日々の生活で真の福音を証ししているのかどうかによって決まってしまうのです。「異なる福音」が語り続けられるならば、必ず教会は衰退し、消えてゆきます。仮にいかに人が大勢集まっていても、教会としての本質を喪失して、人間組織の単なる一形態にならざるをえません。しかし、「真の福音」が語られているならば、そこには「主が共にいてくださる」という神の約束が伴いますので、どのように困難な状況があろうとも教会は建ち続けてゆくでしょう。教会の生命のすべてを決定する鍵はここにあるのです。

 本書は宗教改革者たちが語ったまことの教会の標識である「純粋な福音の説教」とはなんなのか、という課題を追求するものです。本書の中心的な結論を先取りするならば、「純粋な福音の説教とは、この世の諸思想・諸イデオロギーと混交・融合していない、聖書のみが証しするイエス・キリストを語る説教」ということです。この福音の説教の「純粋さ」を取り戻すために、現代において語られている「異なる福音」を特定し、「真の福音」の独自性とはなんなのかを見定めます。そして、このまことの福音が牧師によって語られてゆくときに社会へと広がる影響の射程をたどっていきたいと思います。本書は前作の『必要なことはただ一つ』の姉妹篇ということになります。前作では教会の役割の独自性を追求しましたが、本書では教会が礼拝や集会で宣べ伝えるべきメッセージの独自性を追求します。この点が回復されない限り、教会に将来はありえないと確信します。本書にはかなり厳しい批判を展開した部分もありますが、筆者が批判しているのは「異なる福音」そのものであることに御留意頂き、筆者の批判に含まれている真理契機に心を閉ざさないで頂きたいと思います。

 なお、本書で取り上げた「異なる福音」は、今教会において基本的に「これはキリスト教ではない」と公認されているものについては除外しました。統一教会(世界基督教統一神霊協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、エホバの証人(ものみの塔)、その他「カルト」として分類されているものなどが「異なる福音」であることは明らかですが、これは教会関係者は大抵認知していますし、対策もなされています。本書で取り上げた「異なる福音」はもっと微妙な形で既に教会に入り込んでおり、しかも教会を壊す働きを今も継続しているもので、多くの教会関係者によって「異なる福音」だとは認知されていない、そういう微妙なものでありながら危険度が非常に高いものについて取り上げました。

 本書が説教や教会形成で労されている牧師の先生方、教会役員の皆様、信徒の皆様、福音の意味と福音に根差す生活を求めておられる方々のお役に立てますなら、これにまさる幸いはありません。

第一章 現代の異なる福音

 

1 福音は「成功」ではない

 

 「成功」が至上命題である社会

 現代社会において人々が追い求める第一のこととは、「成功」です。およそあらゆる分野の人々にとっての至上命題とは、成功して社会的地位と富を築くことなのです。これは別に、今に始まったことではありません。人類の歴史が始まって以来そうだった、と言っていいと思います。人々が心のなかで渇望するのは今も昔も変わりません。

 しかし、現代社会はすべての人が成功を追求することを可能にしました。現代以前は、社会の大多数の人にとって成功を求めることそのものがほとんど不可能でした。社会構造や社会階級によって、身分の低さや生まれによって、また両親の経済状態によって、さまざまな要因で成功を求めるという道は閉ざされている人が大部分だったのです。ところが、現代においてはこうした生まれや身分によって成功を求める道が閉ざされている、ということはありません。どんな境遇の人であっても、だれもが成功を求めようと思えば求めることができます。そして、実際に非常に苦しい環境に育った人でも、社会で大成功を収めている例が数多くあります。現代社会においては、万人に成功への道が開かれましたので、成功を求めて苦闘を繰り返す人々は数知れません。今や、すべての人がもし可能ならば自分の居場所である分野でおおいに成功を収めて、社会から尊敬と富と名声を勝ち取りたいと願っています。

 

 「成功」とは?

 ところで、多くの人が渇望し、思い描く「成功」とはなんなのでしょうか。

 漠然としたイメージかもしれませんが、多くの人の「成功」概念は共通しているように思えます。それは、「莫大な富を得ること」、「多数の人から尊敬と名誉を得ること」という二つの事柄が中心を占めています。天才的なすばらしい技術や能力をもった人でも、上の二つの事柄がもしまったくないならば、それを多くの人は「成功」とはみなさないでしょう。「富と名誉」という二つのことが、多くの人の「成功」概念の中心をなしていると言えるでしょう。

 企業でも、教育機関でも、病院でも、政府機関でも、およそどんな分野においても、人を驚かせるような大きな働きを成し遂げて「富と名誉」を獲得した人が「成功者」である。これが漠然と多くの人が思い描くイメージではないかと思います。

 心理学者にアブラハム・マズローという人がいましたが、この人が提唱したものに「欲求段階説」という理論があります。人間は食べることや寝ることといった生理的欲求が満たされると、次に安全に生活したい、と考える。これが満たされるとどこかに所属・帰属したい、と考える。すると皆から尊敬と承認を得たい、と考え、最後に自己実現したい、つまり自分らしく、最高の自分を表現して生きて行きたいと願う。この五段階が人間の欲求の基本的な構造である、というわけです。

「成功」というのはこのマズローの理論によるとどうでしょうか。四番目の「尊敬と承認」に当たるものが「名誉」であり、最後の「自己実現」の働きの結果が「莫大な富」だと考えると、「成功」とは人間の欲求の五段階のうち、究極的なところに根ざしているものということになります。心理学的にも「成功」を求めることは人間の根本的かつ究極的な欲求であり、しかも現代ではこれが万人に開かれているとすれば、ほとんどの人が追い求める至上命題となるのは当然かと思います。

 

 成功を求める教会

 しかし、現代では熟考しなくてはならない問題も出てきました。それはキリスト教会に属する牧師や信徒もまた成功を追い求めている、という現実です。現代では牧師でも信徒でも、「富と名誉」を追い求めている人が大勢いるという事実です。

牧師においては、自分が牧している教会の人数が爆発的に増え、献金がどんどん集まり、とてつもなく大きな会堂が建ち、自分の名前が世界中に知れ渡ることを夢見ている人がいます。また教会の信徒では、この世の多くの人とまったく同じように富と名誉を求めて、自分の属する分野で必死に働いている人もいます。こういうことが現実にあるのだ、心の底に成功への渇望があるのだという意味では、牧師も信徒も一般の多くの人とまったく変わらない人間である、ということになるのかもしれません。現代では牧師は牧師にできる形で、信徒は信徒にできる形で、多くのキリスト者が成功を求めています。

しかし、これは聖書が証しする本来のキリスト者の在り方ではないはずです。「莫大な富と名誉を獲得する」という形での「成功」を渇望するのは、「私を拝めば、この世のすべてを与えよう」と言った悪魔の誘惑を「ただ主のみに仕えよ」(マタイ5:9、10)と語られて撃退した主イエス、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。人の命は財産によってはどうすることもできないからである(ルカ12:15)」、「神と富に仕えることはできない(マタイ6:24)」と言われた主イエスの御心に反しています。また「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵となるのです(ヤコブ4:4)」、「金銭の欲は、すべての悪の根です(一テモテ6:10)」という使徒の言葉にも反しています。つまり、キリスト者が「富と名誉の獲得」という「成功」をこの世の多くの人とまったく同じ考え方で追求するのは、聖書的に言って間違いであり、本来の人生の目的を逸してしまっている罪です。キリスト者は、この世とは違った目的・基準・原則によって、「富と名誉」とは違った形の福音に根差した成功を追い求めるべきで、この世と同質のものになってはいけないのです。

 ところが、現代では牧師も信徒もこの世との同質化が進んでしまい、教会がこの世と同じ成功を求めてしまう、ということが世界中で起こっています。ここから一つの巨大な問題が生じて、教会を脅かすようになりました。牧師や信徒がこの世の多くの人とまったく同じように成功を求めることで、教会で牧師が語るメッセージや、信徒が語る証しが本来の福音と違ったものに変質してきたのです。つまり、牧師の説教や信徒の証しで「この世で成功するためにはこういうことを信じ、実践すべきだ。こういう形で福音を信じれば成功できる」という「成功のための福音」が語られるようになってきたのです。

 

 「成功哲学」と福音の混交

 牧師が「なかなか教会に人が増えない。予算も減って行く。どうしたらいいか」と考えたとします。そのとき、「本来の福音に立ち戻ろう。そうすれば神が道を開いてくださるだろう」と考えられればいいのですが、むしろ現代では次のように考える牧師が多いのです。「そうだ。成功したい、という世の人々のニーズに応える説教をすれば、人は集まって来る。そうすれば自分自身も成功できる、人の成功もサポートできる。一石二鳥だ」こうして、牧師は多くの一般の人の「成功したい」という欲求にアプローチする説教を考えるようにします。

 こういう状況にある牧師にとって、「成功するための福音」を考察するために最善の助けを与えてくれるものはなんでしょうか。それは書店でビジネス書・ベストセラーの棚にある「自己啓発・成功哲学・ビジネス書」の類の書物です。ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』を初めとした数々の書物です。これらの書物は、皆違うタイトルですが、実はすべて内容的には概して同じことを書いています。単純化すると、「頭にはっきりイメージできたこと、深く考え、心に浸みこんだ考えは、現実のものとなる。心は考えを現実化する働きをする。だから、毎日よいこと、すばらしい将来像、達成すべき目標のイメージをくり返し心のなかで思い描き、日々それに向かってチャレンジと努力を重ねることで、富なら富を、名誉なら名誉を勝ち取り、成功することができる」というものです。

 このことに一理あることを否定する人はいないでしょう。これはごく当たり前のことを主張しているのです。そもそも、人間が新しい物事を発明したり創造したりする、というのは心のなかに芽生えたイメージや考えが、現実の姿となることです。飛行機にしろ、コンピューターにしろ、すべて心のなかで生まれ、それが現実化されています。このことを敷衍すれば、自分の人生であっても同じ原理で動く、というのは考え方として当然ありうるわけです。

 しかし、この考え方は決定的な部分で福音とは完全に違ったものであり、間違った考えに根付いた人生観だと言えます。それは、自分の人生をなんらかの「モノ」と同じように自分自分の考える力・イメージの力で創造できるのだ、と考えているところです。自分の人生を自分の考えの力で自由にマネジメントし、自分が自分の人生の主として、自由に創造できるのだ、というこの考えは、単純な現実問題で簡単に挫折します。

つまり、私達は肉体的にばかりか、考える力、イメージする力においても環境に完全に制約されている、ということです。人間はまったくのゼロからスタートするのではありません。幼い頃から、両親を通して引き継いでいるいろいろな考え方や生き方のモデルがあるのです。よい遺産も負の遺産も、大学を出る頃には非常に多くの制約を引き受けているのです。自分の「考える力」「イメージの力」は無限だ、という前提がこうした「成功哲学」にはあるようですが、「考える力」は明らかに有限です。私達の考え方は、多くの制約と前提から成り立っているのです。こうした有限でしかないものを使って自由に人生をマネジメントできる、というのは楽観的過ぎる人生観です。現実の人間を縛る罪や限界の問題がまったく考慮されていません。こうした「成功哲学」を用いて本当に成功できたという人は、ごくごく少数でしかないでしょう。なぜなら、数多くの負の制約を背負っている大多数の人にはこうした考えはまったく適合しないからです。「おもしろい」と思って読んでもそれっきりになるか、何日間か、頑張って何カ月か実践して挫折する、という人が大半でしょう。

そもそも、私たちが生まれて来たのが自分の考えや意志に基づいているのではない、という事実は大切なことを語っています。私達の人生には、自分の力でコントロールできる部分もありますが、できない部分も非常に多いのです。私たちが自分の力で生まれたのではなく、命を与えられ、生かされて生まれてきたのだ、ということはこのことの一つのしるしです。私たちは自分によってはどうすることもできない部分を多く抱えているので、人生でこんなにも悩み苦しんでいるのです。こうした現実的なところを全部無視して、「成功哲学」は極めてお気楽な哲学を展開し、間違った成功イメージを植え付けて多くの人に本を買わせて、お金をもうけています。「成功哲学」を受け入れることは結局「失敗」にならざるをえないのです。

 ところが、成功を求める牧師や信徒によって、福音とこうした「成功哲学」を混交させ、融合させてしまう、ということがなされているのです。

 

福音と「成功哲学」の食い違い

 福音と「成功哲学」を混交・融合させるとき、根本的な無理があるのは福音とこの世的な「成功哲学」は、本質的な部分で完全に食い違っているからです。福音の最終的な目的はこの世にはありません。それは終末と最後の審判の彼方、新しい天と新しい地にあるのです。新しい天地で永遠の命と喜びを生きるのが福音の目的ですから、これに達することが最も大切なのです。この世で「成功・繁栄・祝福」を受けることは、福音にとっては二次的なもの、おまけのようなものに過ぎません。もちろん、福音を信じた結果としてこの世での職業生活や家庭生活が祝福されるということは現実にあります。しかし、福音の最終目的はそこにあるのではなく、新天新地にあるのです。この目的のためならば、たとえこの世での苦しみや痛み、迫害があったとしてもキリストのために耐え忍んで行く、というのが福音です。一方、「成功哲学」の目的はこの世にあります。この世であらゆる面において繁栄し、成功することが目的なのです。つまり、新天新地などはどうでもよく、この世にいる間に成功し、繁栄することがなければ意味がないと考えるのです。

 この両者の目的の違いは、どんなところに現れてくるでしょうか。

 第一に、福音においてはこの世が最終目的ではありませんので、たとえこの世で「敗北・苦難・迫害」といった色々な負の出来事に出会ったとしても、そしてそれがこの世にある間には解決せずに忍耐していくしかないとしても、なお希望を持つことができます。天国で輝く神の光のなかで、これらは解決することを信じて疑わないからです。だからそうした負のものと戦いながらも、なお望みを失いません。しかし、「成功哲学」においてはこの世での苦難や敗北というのは端的に「あってはならないもの」、「不信仰や罪の結果」です。だから、必死に信仰を求めてこれらと戦おうとするでしょうけれども、もし解決できない、という事態になったときには絶望する以外にないでしょう。

 第二に、福音においては「罪」の問題が焦点になります。自分のことしか追求しない、自分の栄光しか求めない罪が問題にされ、キリストの贖いによって罪から救われ、神と隣人のために生きる人生が開かれることを語ります。しかし、「成功哲学」においては「罪」の問題は決して触れられません。人間に罪がある、という前提があるとするなら、「成功哲学」の全体が崩壊してしまうからです。人間は基本的に善であり、考えの力によって自分の人生をマネジメントできる、とするのが成功哲学です。しかしもし人間に罪があり、人間は自分のことしか考えない存在であり、自分の人生をマネジメントすることなど最初からできないのだ、ということなら、成功哲学は根拠のないものになります。こうした人間観の相違も、福音と成功哲学とでは天と地ほどの開きがあり、これらを融合させることはお互いをまったく破壊することなくしては不可能なのです。

 第三に「死」の問題があります。福音は「死」においてこそ力が発揮されます。イエス・キリストが死を打ち破られて復活され、死の向こう側にある新しい天地の希望をお示しになっているからです。福音は天国の希望を示しているのです。しかし、「成功哲学」においては「死」こそ究極の難関になります。この世で最高の成功と繁栄を誇ったとしても、死んだらすべて無に帰してしまいます。そうであれば「成功哲学」もまた、死の前には無意味なものになってしまいます。「成功哲学」にとって「死」は絶対に越えることができない壁になってしまうのです。この哲学が問題とするのは、あくまで「死のこちら側」のことだけだからです。

 以上のように、福音と「成功哲学」はまったく性質の違うものであって、この両者を混交・融合させることは、福音を完全に破壊してしまうことなしにはできません。それでは、実際にこうした融合がなされた場合には、どういった内容をもつ「福音」になってしまうのでしょうか。

 

 「成功・繁栄の福音」の内容

 福音と「成功哲学」が融合した場合には、端的に言って「この世的キリスト教」が誕生します。つまり、キリストの十字架の贖いや復活も、キリストへの信仰も、義認と聖化の教えも、祈りも、奉仕も、教会で説教されるあらゆる事柄の潜在的目的・大前提が「牧師として・キリスト者として・教会として、富と名誉を獲得してこの世において成功するための福音」という内容になるのです。つまり、教会でのあらゆること、説教の内容のすべての目的と前提が、「神の栄光」から「自分たちの成功」にすり替えられるのです。

 もちろん、こんな大それた御利益信仰や御利益的教会形成を大っぴらに主張してしまっては、「こんなのは間違った信仰で、聖書的ではない」と、聖書をよく読んでいる人にはすぐに見破られてしまいます。そこで、こうした内容の説教をするときに、巧妙にこの世的用語を聖書的用語に変更して語るのです。

 つまり、「富や名誉などのこの世のよきもの」を「神の祝福」という用語に、「成功する」を「神の栄光を顕す」という用語にすり替えます。こうして用語を変更して語ることによって、内容的には完全に御利益信仰を説教しておりながら、いかにも聖書的信仰を語っているように見せかけることができるのです。こうしたタイプの説教者はほとんどすべてこの手法を使っています。「御利益的・この世的成功哲学の福音を聖書的用語で語る」というやり方です。こうした説教を聴くと、いかに内容的に聖書から逸脱したものであっても、そこに出てくる聖書的・正統的信仰用語の使用にどうしても惑わされてしまうのです。

 聖書、イエス・キリスト、父なる神の愛、礼拝への出席、祈祷、献金、交わり、苦難の意味など、すべてこれらのメッセージを受け入れるのは「神の栄光を顕し、神の祝福を受けるため」とはっきり説教されながら、しかしつきつめてみると内容的には「この世的な様々なメリットを獲得するための信仰」を語ってしまっているのです。

 それでは、こうした成功哲学に基づく御利益信仰を語っている場合、具体的にどういう説教になりがちなのか、見てみましょう。

 


続きを読みたい方はこちら