ただ信ぜよ ~教会が生きる唯一の道

 

目次

 

 序

 

 第一章  信仰の対象

 

 第二章  信仰の本質

 

 第三章  信仰の実践

 

 第四章  信仰の実り

 

 第五章  信仰の源泉

 

 終章   教会が生きる唯一の道

 

 

 

 序

 「教会が衰退している」

「教会にとって今は大変な時代だ」

「これからは存続が問われる教会が多くなる」

こうした声は、今や教会の「日常会話」の一つとなりました。教派を問わず、非常の多くの教会に「衰退現象」があらわれています。だれもがそれを実感しています。

 こうした現象に対抗して、「時代の流れに逆らって泳ぐ」ためにどうすればよいのか、ということをこれまで『必要なことはただ一つ』、『ただキリストを伝えよう』という著書のなかで考察してきました。本書は、この「衰退現象克服三部作」の完結編として、「信仰」について論じるものです。

 『必要なことはただ一つ』では、教会はひたすら「礼拝」に集中するべきであり、特に牧師は他の分野の事柄にコミットするべきではない、と語りました。牧師が与えられている時間や力などをひたすら礼拝に集中していくときに道は開けることを描きました。

 『ただキリストを伝えよう』では、牧師が礼拝で語る「福音」の本質を掘り下げました。「福音の純粋な説教」とはなんであるのか、考察しました。牧師が愚直にイエス・キリストというお方を語ることに徹していくとき、衰退現象は時間と共に克服されると語りました。

 そして本書『ただ信ぜよ』では、「礼拝で福音を聞くことでキリスト者のうちに生じて実りをもたらす信仰」について論じることになります。福音によって与えられる「信仰」がどのような働きをキリスト者に及ぼしていくのか、それがどう教会形成や教会の存続に繋がっていくのかを描いています。要約すれば「ただ福音を聞くことから生まれるキリストへの信仰のみによって教会は存続することができる」ということです。

本書は学問的につきつめた内容にはなっていませんが、「結局、この困難な時代に私達はどうすればいいのか」の本質部分を平易に語ることを目指しました。本書でとりあえず完結する三部作によって、衰退現象克服の筋道をある程度のところまで描き出すことができたと思います。

 教会形成に労する牧師の先生方、教会役員・信徒の皆様のご参考にして頂ければ幸甚に存じます。

 

 

 

第一章 信仰の対象

 

 信仰の働き

 信仰とはなんでしょうか。「信じる」ということは、「知る」とは違います。「知る」は一般的に、そこにあるとはっきり感覚で確認できるものに対して使われます。自分の目・耳・鼻・口・触覚などで確実に確認できるものについては、「信じる」必要はありません。私たちはそれを「知って」います。それはそこに存在していると感覚を通してわかるからです。

 ところが、この世には感覚では捉えることができないものがあります。たとえば、目の前にいる人が自分を愛しているかどうか、ということはなかなか感覚だけではとらえきれません。もちろん、ある程度までは感覚でわかりますが、わからない部分も多くあります。妙なたとえですが、幽霊や宇宙人についても、見たことがない人がほとんどですから、これも感覚の問題ではありません。こうした、感覚でとらえることができない部分については、「信じるかどうか」の問題だということになります。感覚では知ることができないので、信仰の問題になります。

 ところが、目に見えない部分について、ある信仰・信念をもつと、世界の見え方が変わって来る、ということが私達に起こります。たとえば幽霊を本当に信じ始めると、目の錯覚や光の屈折で見えた影や形が、本人にとって本当に幽霊として感覚される、ということが起こりえます。もちろん、客観的にはそうではないかもしれません。科学的に簡単に説明できる自然現象に過ぎないかもしれません。しかし本人にとっては現実の幽霊になるのです。そして、「わたしは幽霊をあの部屋で見た」と本心から人に言ったりします。本人の現実に対する解釈が、本人の現実になるからです。

妻や夫が自分のことを本当に愛してくれていると信じていると、不思議とそのような愛を感じるようになっていきます。夫や妻のなにげない一つひとつの動作から、相手の愛を敏感に感じるようになります。そして、客観的にあまり自分を大事にしていない夫や妻であっても、「あの人は本当にわたしのことを大事にしてくれている」と本気で言うことができます。逆に相手の愛を信じていないと、どんなに相手が献身的な愛の行いをしたとしても、たいして愛を感じなかったりするのです。そして、「あの人は全然自分のことを愛してくれない」と不平を口にしたりします。自分自身の解釈が現実に投影される、という側面が私達の経験にはあります。私達には「純粋に客観的な世界」を知ることはできません。私達の解釈を離れて、「現実」は存在しません。私達は、自分の解釈によって現実を作り出している、という面があるのです。

 見える世界・感覚の世界は、「事実の世界・史実の世界・客観の世界」であるわけですが、目に見えない信仰の世界は「意味の世界・解釈の世界・主観の世界」なのです。つまり、客観的にそこに存在する現実を、どのように私たちが受けとめるのか、そしてどう向き合っていくのか、その部分を決定するのが信仰・信念なのです。信仰の持ち方によって私達の経験する世界・現実の受け止め方がまったく変わってくるのです。

そして、受けとめ方が変われば、私達の現実への対処の仕方も変わってきます。すると、信仰の持ち方がどうであるかによって、生き方全体・人生そのものに変化が生じてきます。これが信仰のすばらしさであると同時に、恐ろしさでもあります。信仰の持ち方によって、私達の経験する世界は地獄ともなれば、天国ともなるからです。

 

 正しい信仰・間違った信仰

 「いわしの頭も信心から」という言葉があります。いわしの頭のようなつまらないものであっても、それを本当にありがたい、すばらしいものだと信じていると、だんだんそういうものに思えてくる、ということです。いわしの頭でさえ、私たちは信仰によって自分にとって尊いものに変えてしまえるほどなのです。そうであるとするなら、この世界にあるありとあらゆるものについて、私たちは信仰の持ち方によっていかようにも受けとめることができます。私達の事物・現実の世界は、私達の信仰によってどのような顔をも見せる、ひどく混沌としたものです。私たちが物事をどう信じるかということによって、世界は様々な顔と色、動きを見せるのです。

 そして、信仰というものもまた、ある意味ではいかようにも持つことができます。いわしの頭さえも尊いと思えるほど、私たちは主観的な生き物なのです。主観性を強めて、思いこみを強くしていけば、私たちはどんな信仰でも持つことができるのです。私達の信仰というものは、どんなに常識や一般の社会通念から離れているものでも、またどんなに反社会的なものでも、どんなに自分自身にとってマイナスをもたらすものであっても、持ってしまうことができる、非常に曖昧なもの、自由と融通がきくものなのです。

だから、「信仰を持っている」ということだけでは意味をなしません。だれでも、なんらかの信仰はもっています。信仰なしには、私たちは世界を解釈して受けとめることができないからです。こうした意味での信仰は、普遍的にだれもが持っています。「信仰」が「世界観・価値観」の根本にあるのです。

 問題は、「その信仰をもつことは、あなたにとって本当の意味でプラスになるのか」ということです。自分自身に損害と傷とゆがみを与える間違った信仰なのか、それともその信仰をもつことで現実の受け止め方が変革され、よりよく生きることができる正しい信仰なのか、ということが問題なのです。信仰は個人の都合によっていくらでも変えてしまえるところがありますが、それが正しくなければ、本当に自分自身にとってプラスとなり、よりよく生きることにはならないのです。正しい信仰ほど人間を支えるものはありませんが、間違った信仰ほど、人間を破滅させるものもありません。信仰は人生を左右します。私たちの信仰がどういうものかによって、真実の生涯を送れるのか、そうではないかが決まるのです。

 

 信仰の基準

 それでは、私たちの世界観・価値観の根本にあるこの「信仰」が正しいか・間違っているのかをどのようにして判定することができるのでしょうか。なにか、判定の基準になるものはあるのでしょうか。

もちろん、一般的には「そんなものはない」と考えられています。だから、人々の世界観・価値観は恐ろしく多様なのです。それぞれが違った形で信仰を持ち、それに基づいて世界観を形成し、現実を解釈しています。だから人々が意見を戦わせれば、一致点よりも相違点の方が多いのが当たり前です。根本にある信仰の持ち方が違っていますし、また信仰について判定する基準となるものを持っていないからです。

 しかし一方、「そうした基準は存在する」という見解もあります。世界のそれぞれの宗教は「聖典」や「経典」といったものを持っています。仏教であれば数々のお経、イスラム教であればコーラン、そしてキリスト教では旧新約聖書です。こうしたものをおのおのの宗教では信仰の持ち方の基準にしています。そして、自分の信仰が正しいかどうか、こうした基準に基づいていつもチェックし、修正していくのです。

 私たちが信仰をもつとき、こうしたもののうちどれを自らの基準とするか、ということが私達の信仰を決定します。それに従って私たちの世界観・価値観も決定されてきます。広い意味での信仰はだれでも持っていますが、こうした特定の宗教に基づいた基準を受け入れるならば、私たちの信仰はそこから新しい刺激と栄養をくみ上げて信仰が形作られていくので、「特徴」が生じてきます。だから、仏教徒とキリスト教徒では、信仰の特徴がまったく違うものになります。特定の信仰の基準を受け入れることで、信仰が違った形に形成されるからです。

 だから、私たちの人生の非常に多くの部分を決定するのは、「あなたは自分の信仰の基準としてどんな書物・どんな聖典を受け入れるのですか」という問いです。これによって、私達の信仰が定まり、現実をどう解釈するのか、それが決まってくるのです。

 「宗教は信じていない」という人でも、実はなんらかの書物や身近な誰かの教えを、自らの信仰の基準にしているのです。「信じない」という選択肢は存在しません。人間は信じずにはいられない存在なのです。

 

 誰でもなんらかの「神」を信じている

 私たちが信仰の基準としてどういう書物・聖典を受け入れるか、ということにかかわりなく、実は私たちは誰でも「神」を信じています。ヘルムート・リチャード・ニーバーというアメリカの神学者は「神」を「価値の中心」という概念で思索しました。私たちは価値観を形成するときに、必ずなにかに対して中心的な価値を置くことになります。私たちが現実を解釈していくには、価値の中心というものを持たざるをえないのです。なんらかの概念・イメージ・存在・人格・物・社会制度など、どんなものであっても、私たちの内面にはなんらかのものに中心的な価値を置いている、「価値の中心」があるのです。

 ある人は無意識のうちにも、常に「裕福になること」を価値の中心・人生の目的として生きています。その人にとっては、そこに近づけるかどうかが、人生と自分の命を決定するのです。その人にとっては、「富」が「神」であることになります。

 また別の人は、すばらしい異性と結ばれることを常に夢見ながら、そういう異性と共に生きる幸せを人生の至上価値にしています。その人にとっては、そういう「異性からくる幸せ」が「神」なのです。

 また別の人は、なんらかの社会事業を行うことが人生の目的であり、自分にとっての価値の中心です。社会事業を通じて、できる限り大きな仕事を残して深い充実感と達成感・人々からの尊敬を集めることが、この人にとっての「神」なのです。

 ある人にとっては自分の家族や子供が神であり、ある人にとっては自分の趣味の世界が神であり、ある人にとっては学問や芸術が神になります。

 これらはよくある例に過ぎませんが、私たちはまったく宗教的ではなくても、必ずなんらかのものに中心的な価値を置かざるをえない存在なのです。そして、私達が無意識にも価値の中心とみなし、気がつくと自然にそちらに向かって生きているもの、それが私達にとっての「神」なのです。

 こうした場合には、私たちはこの世にあるなんらかのものを「神」として信じていることになります。宗教においてはこの世のものではなく、この世を超越したものを「神」としている点が異なっているだけです。

 

 「信仰」とは「志向性」

 私たちは誰でも、なんらかの「価値の中心」である「神」を信じています。そうした「神」に向かって生きることを「信仰」というのです。信仰とは、私たちの感覚ではとらえることができない、ある「価値の中心」である対象に対する「志向性」であって、この意味においては「信仰者」でない人は一人もいません。私たちはだれでも、なんらかの「神」を志向して生きているからです。

 私たちの価値観・世界観とはある特定の「神」を志向して生きて行くときに、そこにおのずから形成されてくる、現実を解釈するための思考の様式なのです。価値の中心を形成する特定の「神」に向かって生きるならば、そこから私たちの見る現実には様々な目的と価値の階層・序列が作られて行きます。これが私たちの内面を構成する価値観・世界観なのです。

 例えば、お金を「神」としている人について考えてみましょう。お金を唯一の価値の中心として考えていると、このお金を獲得するための「手段・考え方・生き方」の優先順位・価値の序列は非常に高くなっていきます。だから、お金を求める人は、そうしたものを貪欲に求めていくでしょう。ところが、お金とは関係が薄いことについては、序列は低くなっていきます。「友人や家族との時間」であっても、これらをそのものとして喜ぶのではなく、それがお金を得ることにとってどれくらい有益であるのか、という観点から優先順位と序列が決まって行きます。だから、お金のためならば家族との時間を犠牲にしても仕方がない、という考えになっていくでしょう。こうして、「お金」を内面の階層のトップに置いた価値観が形成されてきます。「お金」との関係において、その人にとっての現実のあらゆるものの価値・序列・優先順位が決定されてくるのです。お金という「神」への信仰・志向性によって、お金を中心としてあらゆる物事に対する意味づけ・価値づけ・順位化が行われ、価値観が形成されてくるのです。

 こうした「志向性」としての信仰は誰でもが持っています。どんなに世俗的と思える人でも、なんらかの「価値の中心」である「神」に向かって生きているからです。信仰が「志向性」であるということにおいては、どんな人も基本的には同じです。キリスト者も仏教徒も、特定の宗教に属していない人も、なんらかの「神」を志向している点においては同じなのです。問題なのは、その信仰の向かう先にある「神」が、どんな神なのか、ということです。「あなたはどんな神を信じるのか」という問いが、私たちの人生を決定してしまうのです。

 

 「わたしの神」はなんであるのか

 私たちがどんな「神」を信じているのかということによって私たちの価値観・世界観が形成され、現実の受け止め方が決まってきます。すると、現実への接し方、対処の仕方、生き方までが決まって来るのです。こうなると、私たちが現実のなかでなにを受け取るのか、どんな働きをするのか、なにを目標としてなにを成し遂げていくのかといったことも、そのことによって決定されてくるのです。つまり、「あなたの信じている『神』がどのような神なのか、そのことがあなたの人生を決めてしまう」のです。

これは大げさでもなんでもありません。私たちが信じている神がどんな神なのか、ということが私たちの人生全体の基本的な性格・性質・目的・内容などを大きく規定してくるのです。私たちが真実で善き人生を送るのか、それとも打ちひしがれて闇のなかを生きるのか、それは私たちの信じている「神」によって決まるのです。

 私たちがなにを自分の「神」としているのか、それは多くの場合無意識的なので、なかなか自覚されません。しかし、私たちの生活を顧みるときに、だんだんわかってきます。私たちの生活に、私たちのある特定の「神」への信仰があらわれてくるからです。

第一に「時間の使い方」です。なにに最も時間を使いますか。どんな時間にもっとも心を込めていますか。最も大事にしている時間が、私達の「神」を暗示しています。私達の時間の使い方を見つめることによって、価値観・世界観、その奥にある「神」が透けて見えているのです。

第二に、「心の使い方」です。いつも、なにについて考えていますか。どんなテーマについて考えていることが最も多いでしょうか。どんなことにいつも心を使っていますか。そのことが、私達の神を暗示しています。私達の心の使い方の先に、「神」がいるからです。

 第三に「お金の使い方」です。いつも、どんなことにお金を使いますか。どんなものを買いますか。どんなものになら、お金を使っても惜しくないですか。そのお金の使い方が、私達の神を暗示しています。

 こうしたものを反省していくときに、どういうものに私たちがいつもなにに向かっているのか、それがわかります。そして、私たちがいつも向かっているもの、それが私たちにとっての「神」なのです。

 

 多神・単一神・唯一神

 リチャード・ニーバーは私たちの内面世界において「価値の中心」がどういう形をしているのかによって「神」の数的な形態が三つに分類されると考えました。それが多神・単一神・唯一神の三つです。

 多神教とは、価値の中心がいくつかに分散され、複数的になっている状態です。多神教ではいくつかの「神」をもち、常に複数の志向性を同時的に生きています。単一神教とは、いくつかの価値があるなかで、ある特定の一つのものを自分にとっての「最高の価値」とみなし、優先順位の第一位が存在している状態です。唯一神教とは、価値の中心を唯一の「神」にしか認めず、そこをいつも志向している状態です。その唯一の価値の中心に向かって常に徹底的に生きる、というあり方です。

 これら三つの在り方を私たちの世界観・価値観の内面的な観点から筆者なりに分析してみますと、これらは価値観の統一性・一貫性がどのレベルの徹底性を示しているか、という問題として考えることができます。

「多神教」においては、私たちの世界観・価値観はいくつかの「神」によって分節されており、統合されていません。だから、現実を解釈するときに、「ある時はこういう風に・別の時はああいう風に」といった形で状況に応じて、その時々に応じて判断することになります。つまり、生き方に一貫性・統一性に欠けた状態になります。その場面や状況、時の流れによって、その時々にまったく別の解釈と対応をすることになります。ある時はなんらかの「神」の系列の価値観のもとで判断し、別の時には別の「神」の系列の価値観で判断するからです。「神」が複数であるため、こうした人生態度になります。

私たちが受け取る現実そのものに矛盾や困難・不合理・亀裂が少ない時には、こうした価値観でも対応できるでしょう。しかし、現実そのものが大きな矛盾と不合理を含んであらわれてくるときには、多神教では価値観に統一性と一貫性がないため、現実への解釈がうまくいかなくなってしまい、自分の内面に分裂と対立を深めて破綻してしまいます。価値観が破裂して現実が解釈できず、意味を認識することができなくなってしまうのです。「もう、どうしたらよいのかわからない。生きている意味がわからない」という状態に陥ることになります。多神教は社会や現実がかなり安定しているときには、解釈モデルとして通用するのかもしれませんが、不安定な時にはなかなか通用しにくいものになります。このモデルそのもののうちに、すでに分裂・対立・亀裂が含まれているため、現実そのものの分裂・対立・亀裂が大きくなると、それが私たちの内面にまで深く及んでしまい、現実を会者区して対応することができないのです。

 「単一神教」では、ある最高の価値がありつつ、なおいくつかの価値の序列と階層があるという状態です。これは、「多神」と「唯一神」の中間的なものですので、価値観の一貫性と統一性において、徹底性がありません。価値観のうちにある程度の分裂と矛盾・対立を抱え込んでいます。これも、現実が矛盾と困難を極めてくるときには、機能しなくなってしまうものです。

 そこで、信仰の向かう対象としては「唯一神教」が十全な形で一貫性と統一性を価値観のうちにもたらしてくれます。唯一なる神から、他のあらゆる存在が価値と意味を受け取る、という価値観です。あらゆる現実を、この唯一の価値の中心との関連において解釈するのです。現実が安定を失い、受けとめがたいものがそこに横たわっているときにも、唯一神の信仰は唯一の価値の中心である神からその現実への理解を引き出してきます。

このことにより、およそどんな現実が巻き起こって来るときにも、この唯一の価値の中心から解釈することで、対応が可能になってくるのです。これが「神」からくる価値観の形態としては最も徹底性があるあり方です。どんなに解釈の困難な現実をも、唯一の価値の中心に立ち戻ることによって、新しい認識と意味を見出すことができるあり方なのです。



続きを読みたい方はこちら