み言葉の深みへ 聖書黙想集① マタイによる福音書第1~7章

 

 

イエス・キリストの系図の意味 マタイ1:1~17

 

なぜイエス・キリストの系図から語られるのか。

 

イエスがアブラハム、ダビデに代表されるイスラエルの民に約束された救い主であることを語るためだろう。メシアがアブラハム、ダビデの血統を継ぐ者であることは、旧約の約束が示している。

 

だが、この系図には、イエスの「約束のメシアたる正統性」を表すと同時に、別の目的があるように思える。

 

それがあらわれてくるのは、いくつかの歴史的な「汚点」を明白に書き記しているところだ。

 

4人の女性が登場する。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻。

 

この4人は、皆異邦人だ。救いの外にいると考えられていた人々。救い主の系図にはふさわしくないと普通は考えられる人々だ。

 

タマルは、しゅうとを欺いて子供をみごもった。

 

ラハブは遊女だった。

 

ルツはモアブの女性。

 

「ウリヤの妻」という書き方がひっかかる。なぜ「バトシェバ」と書かないのか。この書き方は、明らかにダビデの姦淫の罪を意識している。ダビデがウリヤを殺して妻を奪い取った罪が思い起こされるように、このように記しているとしか考えられない。

 

また、アハズやマナセといった偶像崇拝の王の名前が堂々と出てくる。

 

「バビロンへの移住」という言葉で、イスラエルの滅亡を記している。イスラエルが神への不服従のゆえに滅びたことを、この系図は隠していない。

 

こうしたすべてのイスラエルの歴史的な「汚点」を、わざわざ書き記したのはなぜなのか。

 

いや、この系図は、実は私達の歴史そのものなのではないか。

 

私の個人史を取ってみても、人にも喜んで見せることができるような部分だけではない。

 

むしろ、神にも人にも隠しておきたいような「個人史的汚点」が点在している、それが私達の歩みではないか。

 

「あのとき、あのことさえなかったならば」「あのとき、あの受けた傷さえなければ」「あのとき、あのことさえ起こらなければ」そう言いたくなるような、汚点が私達の歩みにも刻みつけられているのではないか。

 

いわゆる「普通の人」は存在しない。私達の歩みはオリジナルで、唯一のものだ。私達が苦しんだ暗闇、受けた傷、犯した罪、すべて私達の個人史に刻みつけられている。私だけが心のうちに納めているものだ。

 

さまざまな「汚点」を背負いながら、「不完全さ」「罪深さ」を秘めながら私たちは生きて行く。それは、あの系図そのものだとも言える。

 

個人史のみならず、「教会史」も同じことだ。汚点、欠点、弱点、罪、傷、闇。こうしたものをまったく抱えていない教会は存在しない。あの系図は、教会の歴史の象徴とも言える。

 

あの系図が罪と汚点を顕しているのは、イスラエルの歴史が私達の歴史のプロトタイプだからだ。イスラエルの歴史は、全歴史の原型であり、そこに歴史の意味が示されているのだ。

 

このことを想うとき、系図の最後に記されている、「14代」という言葉に心ひかれる。

 

14代とは、7の2倍。7は聖書では完全を表す数だ。2倍は、それを強調していると言える。

 

イスラエルの歴史を、14代の数字のもとに見つめている。キリストのもとでこの歴史は、14代で区切られる。完全数である7のもとに歴史を見つめることができる。

 

つまり、主イエス・キリストのもとにおいてこそ、歴史は完全なものとされるのだ。

 

私達の個人史、教会史、日本史、世界史・・・汚点と傷、罪が刻みつけられ、「不完全なもの」になっている。

 

しかし、イエス・キリストを信じるとき、このお方の恵みに満たされ、包まれるとき、私達の歴史の汚点、傷、闇はこのお方の光と赦しによって覆われて、神の御前に「完全なもの」とみなされるのだ。もはや神にとがめられず、赦されたものとして、取り扱って頂けるのだ。

 

イエス・キリストは私達のあらゆる歴史の罪の汚点を、赦しの恵みの衣を着せかけて、ぬぐいさってくださる救い主だ。神の御前に、歴史を完成し、無罪のもの、完全なものとして執り成してくださるのだ。

 

汚点に満ちた系図は、イエス・キリストの赦しの恵みを私達に届けてくれている。

 

 

 

インマヌエルの神 マタイ1:18~25

 

イエス・キリストの誕生の物語は、一人の青年の喜びと絶望から始まっている。

 

喜びというのは、マリアという女性と婚約し、共に生活する日を待ち望んでいることだ。

 

絶望というのは、それにもかかわらずマリアの妊娠が発覚したことだ。

 

婚約していた相手が、自分とは別の男と関係を持ち、しかも妊娠した。

 

これは、青年ヨセフをどれだけ打ちのめしたことだろう。

 

「わが神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

 

これは、ヨセフのあげた叫びではなかっただろうか。結婚の喜びが、途方もない絶望の闇に変わってしまったのだ。

 

神を信じ、その導きに従って生きて来たヨセフ。「正しい人」と神にも人にもみなされる人。

 

それなのに、「神はもうわたしと共にはおられない」

 

そう心のうちにつぶやかざるをえなかったのではないか。

 

ヨセフは「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。

 

「表ざたにせず、ひそかに」

 

ここにヨセフの孤独がある。

 

だれにも相談できない。自分一人が背負うしかない。マリアの命を救いたい。自分一人が、この闇を背負って生きていけばいい。

 

ヨセフは決断をくだした。涙と嘆きと、精一杯の祈りをした後だっただろう。

 

しかし、その時、主の天使が夢で語りかける。

 

「マリアの子は、姦淫によるものではない。聖霊による神の子なのだ」

 

神はもう自分とは共におられないと思っていた。自分は神に見捨てられた、と。

 

しかし、そう思っている自分と、神は共におられたのだ。そう思っている自分を、神は御手をもってしっかりととらえておられた。

 

マリアのお腹に宿った子供は、神が共におられることの証しそのものだ。この子は、絶望している自分と共におられた神そのものだ。

 

イエス・キリストは、インマヌエルと呼ばれる。神は私達と共におられる。

 

「もう自分とは神は共にはおられない。

 

もう自分は神に見捨てられた。

 

もう神は私を離れ去った。

 

私が罪を犯したから。私が失敗したから。私が道を誤ったから」

 

そう思っている私、そう思って望みを失っている私と共におられる神、

 

それがイエス・キリストなのだ。

 

キリストがおられるなら、絶望することは神への道になる。

 

失望すること、挫折すること、道に迷うこと、

 

すべて神への道になる。

 

「もうだめだ」と思うことも、「一人ぼっちで生きていたくない」という思いも、

 

神への道になる。

 

救い主イエスは、こうしたすべての道を歩む私達と、

 

いつも共におられる神だから、すべての痛みは

 

このお方が共におられることに気づくチャンスなのだ。

 

 

私達が神を離れることはありえても、

 

神が私達を離れることはありえない。

 

 

 

第二章

 

占星術の学者たち マタイ2:1~12

 

東方の占星術師たちが、イエス・キリストを礼拝しにやってくる。

 

占星術は、旧約聖書で禁じられている事柄だ。

 

「東方」とはペルシャか、バビロンか・・・とにかく「選びの民イスラエル」とは完全に隔てられた異邦人だろう。

 

この人々がエルサレムにやってくる。ユダヤ人の王の星を見たからだ。

 

ヘロデ王とエルサレムの人々は、この占星術師たちの来訪に不安を抱く。

 

ヘロデにとっては、「ユダヤ人の王」は自分の王としての権力と立場を危うくする脅威以外のなにものでもない。自分に取って代わる王は、ヘロデにとっては敵そのものだ。

 

敵意に燃えた王がするのは「戦争」である。それに巻き込まれるのがエルサレムの人々。

 

皆が考えているのは、同じ自己保身・自己保存ということだ。

 

救い主にとって「近い」はずの人々が、かえって遠ざかって行く。「ふさわしい」と思われた人々が、かえってふさわしくなくなっていく。

 

ここに罪の姿があらわれる。

 

罪はどこまでも自己保身・自己保存を継続しようとする。これを脅かすものは、すべて敵になる。自分を守ろうとすることは、救い主を拒否することにつながりうる。

 

冒険しない・チャレンジしない・自分の領域を出ない・自分の生き方を変えない・プライドと自負心ををどこまでも守る・新しく学ぼうとしない・自分の過ちを認めない・・・自己保身と自己保存はさまざまに姿を変えながら、かたくなにキリストの到来を認めず、不安を抱く。

 

イエス・キリストは自分を守ろうとするときには、不安を与える存在だ。

 

「あなたはこれまでの生き方ではいけない。あなたの心は変わらなくてはならない。わたしをあなたのうちに受け入れてほしい。」

 

キリストはこうしたメッセージを送り続けてこられる。これが正しいことを、自分の良心はわかっている。だが、変化するのが怖い。自分を守りたい。かたくなに自分を閉ざすとき、キリストの存在に不安を抱く。

 

これと対照的なのが、占星術の学者たちだ。

 

この人々はふさわしい人々ではなかった。異邦人であり、占星術師であり、救いから遠い人々だった。だが、この人々は星を見て、信じておおいなる旅にでた。自分を明け渡してチャレンジした。自分を捨てて、キリストにお会いすることを熱望した。

 

この人々が体験したのは、「喜び」だ。

 

あの星がヘロデのもとからベツレヘムまで学者たちを導き、ついにとまったとき、この人々は生きる意味が満たされる喜びを味わった。

 

神の選びから隔てられた異邦人、イスラエルに嫌われた占星術師である、救い主から遠い人々が、かえって近いものとなり、救い主に出会った。選ばれなかった人々、愛されなかった人々が、かえって選ばれる者となり、愛される者となった。

 

なぜ、神はこの学者たちを主イエスのもとに導かれたのか。

 

罪深い人、ふさわしくない人、救いから遠い人、選ばれなかった人、愛されなかった人、認められなかった人、嫌われた人、捨てられた人、

 

そういう人は、自己保身できない。自己保存を続けられない。自分が砕かれ、壊れている。

 

だから、救い主が必要だ。救い主に出会うことを求める。

 

そんな人々をこそ、イエスという新しい王は受け入れてくださる。神はそのことを証しされたのだ。

 

私には価値がない、私は救われ難い、私は罪に満ちている、

 

そんな私を、イエスは受け入れ、愛してくださる。そんな新しい王を、私も愛することができる。

 

このことが、あふれる喜びなのだ

 

 

 

神の御心の旅路  マタイ2:13~15

 

ヘロデの怒りが爆発するその寸前に、主の御言葉がヨセフに与えられる。

 

「エジプトに逃げ、そこにとどまっていなさい」

 

ヨセフは「夜のうちに」出発する。

 

このヨセフの敏速な、そしてまっすぐな御言葉への服従に驚かされる。

 

占星術の学者たちの訪問を喜んだのもつかの間、エジプトへの緊迫した逃亡劇へと導かれる。ヘロデの差し向ける追手の足を恐れながら、エジプトへひたすら進む。なんというクリスマスだろう。なんという焦り、汗、息切れ、戦い、疲労を感じさせる物語だろう。

 

そこには、出産後のゆっくりとした休息もなければ、安全な住処もない。旅立った後に、食べ物や水が十分にあるかどうかも、わからない。

 

あらゆる不確実、不安定を引き受けて、不安と恐れのなかエジプトへ逃げる。

 

ヨセフはこの旅を、神の言葉によって引き受けた。神の導きを信じて、ヨセフは旅立つ。

 

なにがヨセフにこの旅を行く力を与えたのか。それは、幼子イエスとの出会いではなかったか。

 

幼子イエスが生まれたとき、そして胸に抱いたとき、ヨセフは神の子を自らのうちに受けた。その幼子イエスとの出会いの喜びが、ヨセフの胸に消えない喜びの炎となったのではないか。マリアの腕にいる幼子を見るたびに、心を満たす喜びが、困難な旅路を行くヨセフを励ましたのではないか。

 

私達が胸に主イエスを抱くとき、ヨセフを満たした喜びの力が、私達の心をも満たす。どんな困難な旅路が備えられているとしても、主イエスを受け入れた喜びは、私達を導く力の源そのものなのだ。キリストがうちにいてくださる喜びが、旅路の厳しさを埋めてあまりある慰めそのものだ。

 

どんな困難と危険があったのかわからない。どんな恐怖と不安に耐えていたのかもわからない。しかし、ヨセフたちはエジプトに逃れることができた。

 

しかし、それは「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言の言葉が実現するためだった、と語られている。

 

打ちのめされるようなひどい逃亡の旅をしているときにも、それは神の御心だった。イスラエルの民がエジプトを出て約束の地へおもむいたように、エジプトから神の子が導かれるのは神のご計画だった。

 

到底御心とは言い難い旅路もまた、神の御手に守られたものだった。

 

私達の歩みにおいても、時にまったく予定外に、逃げなくてはならなくなることがある。「このことの一体どこに神の御心が」と言いたくなる、そういう形で去らなくてはならなくなることがある。

 

しかし、どんなに厳しい、予定外の、意図に反した旅路を強いられるときにも、そこには神の御心がある。神の御手は私達を離れてはいない。時に逃げて、去っていかなくてはなかなかったからこそ、新たにそこから「呼び出される」ことも起こされるのだ。

 

敗北して、逃亡して、隠されて・・・そのすべては、神によって新たに呼び出され、新しい戦いをし、新たな勝利を得るためではないだろうか。

 

救い主はエジプトから呼び出された。どんなに追い詰められたところでも、神は私達を新たに呼び出して、新しい働きを開始することがおできになる。

 

意図に反した道を歩いているときも、神に信頼しよう。

 

 

 

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