ニーチェを超えるキリスト教を求めて

~ニーチェと牧師の形而上学的激論~

 

 

目次

 

 

第1章 「神の死」をめぐって

 

第2章 「力への意志」をめぐって

 

第3章 「ルサンチマンと道徳」をめぐって

 

第4章 「認識と真理」をめぐって

 

第5章 「ニヒリズム」をめぐって

 

第6章 「超人」をめぐって

 

第7章 「永遠回帰」をめぐって

 

第8章 「肯定」をめぐって

 

おわりに 「ニーチェを超えるキリスト教」

 

 

 

 

 

 

 私が初めてニーチェを読んだのは、キリスト者になる前の青年時代ですが、なにを言っているのか、なにを言いたいのか、まったくわかりませんでした。とにかく尊大で意味不明な大言壮語が並んでいる文章という感じで、お世辞にもよい印象は受けませんでした。特に『この人を見よ』の章立てを見たときは仰天しました。「なぜ私はこんなに賢明なのか」「なぜ私はこんなに利口なのか」「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」が、1章から3章までのタイトルなのです。「死ぬほど傲慢なこの人は、一体なんなのだ? なんでこんな人の本が残っているのか?」という以外になにも考えられず、読む気もしませんでした。

 キリスト者になってからまた読む機会がありました。その時は、言っている意味はかなりわかりましたが、その内容の多くがキリスト教批判であり、教会に対する罵詈雑言が嵐のように延々と続くため、途中で投げ出してしまいました。キリスト教とほぼ真逆であるニーチェの思想に対して、めまいに似た非常に強い不快感と嫌悪感を覚えました。到底、その時の私には読んで消化できるようなものではありませんでした。それは、私自身が信仰歴も浅く、信仰的・神学的に、ニーチェの批判を超えるようなものをほとんど持っていなかった点が大きいと思います。ニーチェに思想的に粉砕され、信仰を失ってしまうのが恐ろしくなり、逃げたというのが正直なところではないかと感じています。

 それから、しばらくの月日が流れましたが、牧師となって働く中で、現代社会について色々と考えざるをえなくなり、「ポストモダン」の思想群を学びました。「キリスト教会は現代社会にどう伝道すればいいのか」について考えるなかで、この思想群で出会ったのです。そして、「ポストモダン思想」についてある程度学ぶと、そのどこを読んでも不思議とニーチェの書いていたことが思い浮かんでくるようになりました。どの書物も、ニーチェ思想を敷衍して現代流に展開しているものであるように読めたのです。

 そこから振り返って入門書も含めてニーチェを再読してみると、その内容があまりに20世紀、21世紀の社会の事象と符号していることに深い驚きを覚えました。「ポストモダン的な現代社会の根底にあるのは、ニーチェ思想だったのだ」ということに気づき、改めてこの思想家と取り組むことになったのです。

 キリスト教会が、現代社会でどうしたらいいかわからず立ち往生しているのは、ニーチェの批判を乗り越えることができていないからではないのか。ニーチェがせっかく重要な弱点を突いてくれているのに、それを馬鹿にして無視してきたことが、教会の問題点の一つなのではないか。そして、もし「ニーチェを超えるキリスト教」のビジョンが、ニーチェの批判に耐えるなかで見えてくるなら、それは教会にとって大きなプラスになるのではないか・・・。

そんな問題意識から、ちくま学芸文庫の『ニーチェ全集』を買って本格的に読み始めました。その学びから多くのことを考えさせられましたが、それは思想的な迷路のなかを彷徨するようなもので、最初はどこかに「結論」や「出口」があるのかもしれないと考えていました。しかし、やがてそうした考えは捨てることになりました。試行錯誤の泥沼をはいずり回っているうちに、なんとなく私なりにニーチェ思想の「型」は見えてきましたが、「答え」はむしろ、遠ざかっていきました。そして、ニーチェとの対話には「答えがでない」ことに、一つの意義があるのではないか、と考えるようになりました。

 その読書体験は、ボクシングのリングに上がって、ニーチェという荒れ狂う思想家と果てしなく殴り合うというイメージそのものです。何度もダウンしながら殴り合っているうちに、こちらに不思議と気づきが生じてきます。言葉を通して殴り、殴られることで、思考の形態そのものがどこか変えられていくのです。そのニーチェとぶつかり合う「プロセス」そのものに意義があるのであって、「答え」が出ることが大切なのではないと感じました。

というのも、ニーチェはある意味ではノックアウトすることができないタイプの思想家だからです。いくら倒しても、別の形で起き上がって襲いかかってくるゾンビのようなものです。思想そのものに、倒れても立ち上がることを可能にする装置があるのです。その果てしない思想的なボクシングによって、私たちが「鍛えられる」プロセスそのものが、ニーチェの読書体験の意味なのではないかと思いました。ニーチェの認識を通して、私たちの認識と思考が変えられ、鍛えられ、より強力なものにされます。その読書体験をキリスト者の方々にも味わって頂きたいと願い、本書が生まれました。キリスト教神学の、いわば「真逆」のタイプの思想家を相手に対話と批判を繰り返すことで、どこからか今後の時代を考えるうえで重要な論点が浮かび上がってくることが期待されます。もし、「ニーチェを超えるキリスト教」についての「答え」があるとするなら、それはニーチェの批判によって鍛えられたその先にあるものでしょう。それがなんなのかは、各人が見出すしかないのかもしれませんが、私なりに考えたところをご紹介できればと思います。

 本書に登場する「ニーチェ」は、あくまで私がニーチェに取り組むなかで生まれてきた「私なりの形而上学的シュミレーションとしてのニーチェ像」に過ぎません。ニーチェの著作そのものは、明らかに私が本書で描いたものよりも遥かに複雑で豊穣で、深いものです。彼の使っている語彙や文体、思考法の豊かさそのものからして、私には到底真似できるようなものではありません。彼は悲劇的な生涯を歩んだかもしれませんが、哲学的な意味でも文才の意味でも、天才だったと言えると思います。私の「ニーチェ像」は、実物よりもずっと貧困なもので、その点については私の彼の思想の読みの浅さと思想的な未熟さとして、ご容赦頂きたいと思います。

長年ニーチェを研究している方からは、「ニーチェはあなたが描いているようなものではない」というご批判を受けるかもしれません。また、「キリスト者なのに、ひどいアンチ・キリスト者であるニーチェを議論の相手にすることそのものが不信仰ではないか」というキリスト者の方からのご批判もあるでしょう。しかし、「牧師」というニーチェが最も嫌ったキリスト教会の職務を担う者が、自分なりのニーチェ体験を共有することを、苦笑いしながらも楽しみ、新しい刺激を受けてくださる方もおられるのではないか、「ニーチェに鍛えられる」体験をわずかながらでも追体験して頂きたいと願い、取り組ませていただきました。わたしが初めてニーチェを読んでから本書を書くに至るまで、ほぼ15年かかっています。それでも、「わたしが知らないニーチェ」は数知れないほどいるでしょう。思想的にはごく小さな範囲のことでしかないかもしれませんが、ニーチェ思想と対話しながら今後の時代の趨勢と、キリスト教の将来を模索してみましょう。

 「ニーチェってなんなの? どう考えたらいいの?」とお考えのキリスト者の方、もしくはニーチェを学ばれていて、「ニーチェのキリスト教批判に、教会はなんの答えるのか?」に関心のある方、「ニーチェ以後のキリスト教の在り方」を展望したい、という方。本書を通して、主なる神がニーチェ思想を通して、思想的に鍛えてくださる祝福がありますよう、お祈り申し上げます。

 

 

 

第1章 「神の死」をめぐって

 

牧師 こんにちは、ニーチェさん。わたしは、田舎の教会で牧師をしている者で、あなたの著書からいろいろ学ばせて頂きました。現代にキリストの福音を伝えていくうえで、あなたの思想は大変参考になります。今日は、あなたにそのことを感謝しつつ、あなたの思想と、わたしの思想とを出し合って、互いに学び合えるところはないかどうかと考え、お訪ねしたのです。

 

ニーチェ わたしは牧師という人種が人類のなかで、最も下劣で下等だと考えている。できるならば、すぐに出て行ってもらいたいし、教会で説教しているお前のような人種と話していると考えるだけで虫唾が走る。

 

牧師 最初から随分攻撃的な言い方ですが、それはどうしてなのか、理由だけでも教えて頂けないでしょうか。

 

ニーチェ それは私があらゆる角度から、著作のなかで述べているが、第一の理由はお前たちが生命を否定する者だからだ。

 

牧師 私たち牧師は生命を否定しているどころか、生命を肯定する福音を語っているのですが・・・。そこのところに、根本的な誤解があるようですね。

 

ニーチェ いいだろう。お前たちが説教という死の務めで語っている、「神」という主題から始めようではないか。考えてみればわたしは一度、牧師という人種と向かい合って、徹底的に叩き潰してみたいと思っていたのだ!

 

牧師 そういえば、あなたのお父さんも牧師でしたね。早くに亡くなられてしまって、あなたも寂しい思いをされたのではないですか。

 

ニーチェ 「同情は悪徳である」とわたしが書いている言葉を読んだのか? わたしが最悪な気分になるのは、牧師という低級種族から同情されるということなのだ! わたしに二度と同情するな!

 

牧師 それは失礼しました。また、そのことについては、お話したいと思います。

 

ニーチェ わたしは自分の父についてなど、話したくないし、聞きたくもない。まして、お前のような父の同業者にそのことを指摘されるなど、論外だ。

 

牧師 とにかく、「神」についてあなたが考えていることを、ごく短く話してくれませんか。

 

ニーチェ 「神は死んだ」、とわたしが語っているとき、その「神」とは人間が想定しているあらゆる理想、至高の価値、生きる目的と意味となるもののことを言っている。もちろん、そのなかにはお前たちが説教している「三位一体の神」も当然含まれているし、お前たちと同罪のプラトンが語る「イデア」に代表される、あらゆる「理想」も含まれている。

 

牧師 あなたが語っているのは、客観的にそうした理想のすべてが失われたということですか? わたしは21世紀に生きていますが、現代でも理想を掲げて生きている人々は大勢います。理想に燃えて大事業を成し遂げる人だって、無数にいますけど。

 

ニーチェ わたしが語っているのは、「客観」などというものでない。この「客観」という概念については、わたしの主たる敵の一つなのだ。忌まわしいカントや実証主義者たちが語った事柄だが、「客観」はわたしが死を宣言した「神」のなかの一つと言える。「客観」などないのだ。わたしが言うのは、人間を外側から規定するこうしたすべてのものが、効力を失ったということだ。あえてお前の言葉を使うなら、いわば「主観」の時代が到来したということだ。

 

牧師 それでは、あなたは人間が目的とするべきあらゆる価値や理想、意味となるものが、完全に失われたということを言っているわけではないのですね。

 

ニーチェ 当たり前だろうが。どんな時代でも、理想を抱く人間がいるのを否定するものではない。こんな誤解をするから、牧師は嫌いなのだ。「神」が否定されたと感じると、意味もわからずすぐに怒り出す。人の話をよく聞け。

もちろん、わたしはお前の信じている神も当然死んだと考えている。だが、それ以上のことを言っているのだ。大勢の人間を外から規定し巻き込むような、人間の生命の「枠組み」が失効して、各人が自らの「意味づけ」と「価値づけ」によって、そうしたものを作り出す時代が来たことを宣言しているのだ。

 

牧師 20世紀に「ポストモダン」という思想が流行しましたが、ジャン・フランソワ・リオタールという思想家が、「大きな物語の終わり」ということを言いました。時代を大きく規定する世界観・価値観となるものの喪失を語っています。あなたの言っていることと一致していますね。

 

ニーチェ 「一致している」という言い方は嫌いだからやめろ。わたしはだれとも「一致」しようとも思わないし、だれかに「一致している」と言われるのを嫌う。まあ、「ポストモダン」の思想家はほとんど、わたしの思想の子孫と言える。彼らは、わたしが語ったことを、その時代のなかでささやかに展開したに過ぎない。わたしが彼らの「元祖」であり、彼らはわたしに従っている部分が大きいことをわきまえなさい。わたしは、「ポストモダン」よりも深く、大きいのだ。ははは。

 

牧師 すると、あなたは本当に「預言者」的な役割を果たしたことになりますね。19世紀のあなたの時代に、21世紀までの時代の流れのようなものを、洞察されていたわけですからね。

 

ニーチェ 「預言者」と言うな、馬鹿が。お前の神など、わたしは信じていないし、お前の神からわたしが言葉を受けたなど、論外だ。お前の思想の文脈では「預言者」という字であっても、わたしの場合は「予言者」なのだ。字を間違えるな。わたしは時代を見通したのだ。

 

牧師 ははは。わたしはいつも、だれかが「旧約の予言者」なんて書くと、「字が違います。預言者です」などと言っているものですから、習慣でやってしまいました。すみません。

 

ニーチェ 以後気をつけるがいい。わたしは人間が捏造した、あらゆる「人間を超えたもの」が人間を支配することができなくなることを、「神の死」として宣言した。わたしがこれを書いた当時、だれも認めようとせず、嘲笑しただけだったが、お前の時代にはもはや常識になっているようだな。

 

牧師 いや、本当にそうです。自分のことで恐縮ですが、今教会は非常に厳しい時代を迎えているのです。「宗教離れ・世俗化」が世界中で深まって、教会の門を叩く人が減り続けています。存続が問われる教会も多く出ています。悲しく、嘆かわしいことです。

 

ニーチェ 素晴らしく、喜ばしいことだ。わたしが描いたビジョンが実現していることを、うれしく思う。教会など滅びてしまえ。ははは。あなたがた僧侶階級が人間の生命を否定していることに、人類が気づいたということだ。ツァラトゥストラ万歳!

 

牧師 わたしがあなたの思想に注目したのも、まさにここが理由なのです。つまり、あなたの思想を教会の立場から乗り越える道が見つかれば、この時代を貫いて歩む道が開かれるのではないか、と。

 

ニーチェ 生意気な生臭牧師めが。わたしの思想をお前たち教会が生きるための踏み台にする気か。

 

牧師 そうです。あなたの思想を、信仰的に乗り越えられれば、これからの時代に教会が生きる筋道がクリアになるのではないかと、わたしは考えているのです。

 

ニーチェ 面白い。受けて立とうではないか。わたしは昔から、牧師という下等かつ下劣な種族を木っ端みじんに打ち砕きたいと考えていた。これが実現するとは、形而上学的にではあれ、最高の気分だ。

 

牧師 では、さきほどの「神の死」に戻りましょう。わたしがこのあなたの思想について最も疑問に思うのは、超越的なものをすべて否定して生きるというのは、自然な人間にとって無理があるのではないか、ということです。宗教は人類が生活した最も古い時代にも、洞窟の壁画などを通して確認されているものです。つまり、「超越的なもの」を信じることは、人類のDNAに組み込まれているのではないか。宗教を信じないことではなく、信じることの方が、むしろ人間にとって自然なのではないか、ということです。

 

ニーチェ なぜだ。なぜ人間は超越的なものを信じるのが自然だと言えるのだ。

 

牧師 たとえばですが、誠に失礼な言い方をしますが、侮辱と受け取らないでください。あなた自身の生涯のことです。あなたは、神を含めた超越的なすべてを否定して生きられ、最後は狂気に陥って亡くなられました。狂気については、持病のせいだと考えることもできます。しかし、あなたはそうした超越的なすべてを否定して歩んで、幸せでしたか?

 

ニーチェ わたしが幸せだったかどうかということほどの愚問はない。わたしは、そういった範疇の外を生きたからだ。わたしは、真理を知ることによって人間は幸福になるなどと考えてはいない。むしろ、どれほど残酷な真理に耐えられるか、それが人間としての強さであり、哲学者の姿だと考えている。

 

牧師 わたしには、そんなあなたが途方もなく不幸な人間に見えます。あなたの人生の大半はとてつもない孤独に満たされており、あなたの愛の経験ははかない幻のようで、あなたの語ったすべては、義憤と悲壮感に満ちています。わたしは思想家としてのあなたの徹底的な歩みをとても尊敬していますが、わたし自身はあなたのような人生はまっぴらごめんです。

いや、すみません。なにが言いたいのかというと、あなたは超越的なものすべてを否定して歩まれましたが、あなた自身の人生が悲しみに満ちているのは、そのことと無関係ではないのではないか、ということです。

 

ニーチェ なにが言いたい? わたしと決闘がしたいのか?

 

牧師 いえ、すみません。言い過ぎたかもしれません。お許しください。決闘はもうすでにしています。剣ではなく言葉で、ですが。

あなたが「神」という言葉で語っている「超越的なものすべて」は、人類の8割以上を占める、一般的かつ平凡な人々にとっては幸福に生きるために必要だ、ということです。あなたのように超越的なものを生きるうえで完全に否定している方が、かえって不自然なのです。不自然だからこそ、苦しみと悲しみが増幅するのです。

人類があなたの言うような「神の死」の時代を経験しているのは、せいぜい2世紀足らずです。それまでの気の遠くなるような長い年月、人間は宗教に希望を託してきました。なぜでしょうか。それが、幸福に生きるために必要だったからではないでしょうか。人間の幸いな生き方をするために宗教がそれなりに有効だったから、これほど普及したのではないでしょうか。

 

ニーチェ わたしは、まったくそうは考えない。お前の言っていることは虚偽だ。キリスト教によって、人間が幸福を得るだと? キリスト教が自然なこと? 事実は反対で、キリスト教こそ「反自然」「反人間」「反生命力」の根源なのだ。

 

牧師 どうして、あなたはそう言われるのですか? わたしにとってキリスト教が語る神は、自然・人間・生命を肯定する最たるお方です。

 

ニーチェ なぜなら、キリスト教の神は欲望の否定を命じるからだ。それこそ、わたしが最も憎むところだ。欲望こそ、人間の根底にある最も強力な力であるにもかかわらず、お前たちの「神」は欲望を否定し、人間を奴隷化・家畜化・訓育化しようとする。

 

牧師 神は「的外れな欲望」は否定されますが、秩序に即した欲望やそれを通して得られる快楽については、祝福を与えておられます。あなたはそこのところを、根本的に勘違いされていますね。

快楽も欲望も、神がお造りになったものですよ。これらは善きものです。あなたは勝手に、聖書がこれらを全否定していると考えておられますが、それはまったくの間違いです。神は、それらが神の創造の秩序に即している限り、祝福し、喜んでくださるのです。神は預言者、使徒、信仰者たちに食べ物をお与えになっています。天からのマナ、主イエスのパンと魚の物語、枚挙に暇がありません。また、結婚を祝福され、生まれてくる子供たちを神ご自身が喜ばれています。それ自身が神の業なのです。これのどこが、「反人間・反自然」なのですか? 

あなたの思想の方こそ「反人間・反自然」になっているように、わたしには見えます。

 

ニーチェ わたしは、お前とこんなことを話しても永遠の平行線になるだけであって、すべてが無意味でデカダンスであることをわきまえている。わたしはお前を説得できないし、お前もわたしを説得できない。この対話が行きつくところは、最後まで言葉で殴り合って、ついには完全な無理解で終わるということだ。

それを前提に言わせてもらえば、キリスト教は性欲を初めとしたあらゆる欲望を否定することによって、人間を抑圧し続ける、自然性への圧政の道具だということだ。「自己中心の罪」をお前は説教で毎回否定しているな? それが人間性の抑圧なのだ。それがなぜわからない? 

「自我」や「自己愛」を否定することで、お前はありもしない「原罪」を捏造し、人間を支配する道具としているのだ。そうした教会の支配に、人類は嫌気がさした。だからこそ、あなたの言う「世俗化」が流行っているのではないか!

教会は「うざい」のであり、「胡散臭い」のだ。そこに漂う「人間性への抑圧支配」の死臭に、もう人々は我慢ならないのだ。あなたの言うようにキリスト教が自然であり、人間に幸福を与えるなら、なぜ教会にはこんなにも人が来ていないのだ? 

 

牧師 ううう。そこを突かれると、痛いですね。確かに、教会は今の時代、流行っていない。多くの人が背を向けている。教会も、世界的な世俗化の前に大変な劣勢です。

 

ニーチェ わははは! わたしが言っている通りだ。わたしは19世紀に、21世紀までを見通したのだ。ああ、気持ちがいい。牧師という低俗かつ下等な種族を打ち倒すと、こんなに胸が晴れるものなのだな。スッキリ爽快だ。リアルに生き返った気分だ。

 

牧師 いえいえ、待ってください。わたしはまだ倒れていませんよ。確かに、教会は流行っていないし、閑古鳥が鳴いているかもしれない。そして、あなたの言う「神の死」や「世俗化」の流れは確かに深く迅速に進んでいる。それは認めましょう。だが、それが人間の幸福にとって適切かどうかは、別問題だ!

むしろ、今の世俗化状況が人間の自然な幸福の在り様にとって不自然だから、こんなにも問題と苦悩が噴出しているのではないでしょうか。格差、貧困、差別、心理崩壊、人格障害・・・この時代の病がこんなに多いのは、むしろニーチェさん、あなたの思想のような、不自然なものが流行しているせいなのではないでしょうかね。あなたのような、めちゃくちゃなことを言う人の本がベストセラーになって書店に並んでいたりするのです。わたしに言わせるなら、こんな状況こそ「終末的」ですよ。

 

ニーチェ ああ言えばこう言う。まさに「永遠回帰」だ。

 

牧師 わたしは「永遠回帰」など信じないし、この対話を通してあなたの思想の弱点をあぶり出しているのですから、この対話は「前進」していると思います。「終末」に向かってね。

 

ニーチェ 結局、なにが言いたいのだ? さっぱりわからんよ、デカダンス君。

 

牧師 だから、あなたはキリスト教が欲望を否定していると言うが、そうではない、と言っているのです。聖書は欲望を否定しているのではなく、秩序付けているのです。神がお定めになった形に即しているなら、欲望と快楽は善きものなのです。

たとえば、性欲については結婚関係のなかで満たされることに祝福があります。結婚外での性欲の満足には、痛みと後悔がつきまといます。野心については、神が召命と使命としてお与えになった枠内で、意義あるものとなります。使命を果たすことで、「神の栄光を顕す」という野心が満たされることについては、神はお喜びになっているとわたしは思います。聖書は欲望を否定しているのではなく、神の御心と合致している限りにおいて、祝福しているのです。

 

ニーチェ しかし、それが多くの人には抑圧的なものと映り、不人気なのだろう? キリスト教がそうして生命の根本を否定しているから、「神の死」は進行し続けるのだ。お前はキリスト教は人間を幸福にするというが、むしろ真実はその逆だからこそ、このような傾向が生まれたのではないか。

 

牧師 問題は、不人気かどうかということではありません。真理は大抵、いつでも不人気です。少数派こそ、真理を持っていることが多いのは歴史が示しています。こういう言い方をしましょう。「欲望を秩序づけることは、生命の否定ではなく肯定である」。

つまり、欲望には「方向付け」が必要であり、これなくしては私たちの歩みは非生産的なものに終わる、ということです。性欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、所属欲・・・こうしたものを充足させることを人生の中心にしていいのですか? むしろ、これらの充足は人生の「結果」である、というのがキリスト者の立場です。

つまり、私たちは神がお与えになった使命と目的を追求する結果として、欲望の充足を味わうのであって、そこには順序があるのです。欲望の充足を人生の中心においてしまうとき、私たちの歩みは方向性を失い、快楽と陶酔のなかに埋もれてしまうでしょう。そんなことでは、どうして私たちの人生が世界をよりよくするために役に立ったと言えるでしょうか。

あなたは欲望の解放や陶酔、生命の熱狂といったものを主張しておられますが、それらは私たちの歩みの中心なのですかね。もしそうなら、あなたはヘンテコな快楽主義者ということになる。

 

ニーチェ お前に言おう。陶酔、快楽、熱狂、闘争こそ生命の中心であり、これらから生じる快楽の増大こそ、人間を肯定するものなのだ。「ディオニュソス的」という言葉でわたしが表現している、人間の欲望の祝祭が、人間に必要なものだ。

それはなにも、よく誤解されるように、乱痴気騒ぎや馬鹿騒ぎをする宴会のことだけではない。むしろ、強い者、貴族的なもの、自分を克服する力のあるものが、自らの生の力の高さを覚えて歓喜に震えることなのだ。

 

牧師 はっきり言います。私から見ると、それは人間性の破滅でしかありません。また、それこそ別の意味での人間性の抑圧と否定にほかなりません。欲望は方向付けと統制を離れると、自己と他者を壊滅する働きをするのは、戦争の現場の証言を見ればわかります。法律やルールを離れると、人間は歯止めのきかない「欲望の祝祭」を渇望して、残酷と残虐を尽くすことに喜びを感じるのです。それは、自己と他者の壊滅、いや社会の崩壊にほかなりません。

 

ニーチェ まさにその残酷さや残虐さのなかに、わたしは人間性の高揚と陶酔を見ているのだ。そうした欲望から生じる強い者の果てしない残虐さと陶酔が、高貴さを彩るものなのだ。このような人間性の高まりを否定するから、どうしようもない凡俗が社会を支配することになる。

 

牧師 それこそ唾棄すべき思想です。あなたの思想のなかで最も嫌悪すべきところだ。それでは、一つの極論について質問しましょう。あなたは「高貴な人間」のために社会が崩壊し、人と人が欲望のために残虐さをあらわして殺し合うことを認めるのですね?

 

ニーチェ わたしが言うのは、そんな馬鹿げた極論ではない。わたしを悪者に仕立てようとするのはやめろ。自分の分が悪くなると、相手をいつも「罪者」するのは、お前たち牧師の最大最高の下劣さだ。人間が「超越的なもの」から離脱したとき、そこにあらわれるのはただただ「人間」だ。強い人間と、弱い人間だ。強い者は、より強くなればいいし、弱い者も、より強くなればいいことだ。強くなることを望まない者は、没落するだけだ。

そして、強い者は己の力の素晴らしさに陶酔する。こうした「神」を失った人間の強さと弱さがせめぎ合う、残酷な「自然性」をわたしはそのまま肯定しているだけだ。

 

牧師 残念ながら、現代世界はあなたの語っている世界に近づいてしまっていると思います。わたしがしたいのは、キリストの福音によってそれを修正することです。

あなたの言う「自然性」は、要するに弱肉強食を容認しているだけだという点で、動物の世界と変わりません。あなたは、人間を動物にしたいのですか? 「より動物的な人間」があなたにとって「強い人間」なのですか?

わたしにはそうは思えません。それこそ欲望がむき出しにされて人々が踏みにじられる「野蛮さ」であり、その悲惨さを克服するためにこそ文明が発展してきたのでしょう。そんな「野蛮状態」によって多くの人々が不利益をこうむるからこそ、社会のルールと制度が整備されてきたのです。あなたは、動物状態に回帰しろ、と言うのですか?

 

ニーチェ ははは。わたしは、動物に回帰しろ、などとは言っていない。むしろ、そうならないための人間としての高貴な生き方はなんであるのかを哲学を通して示したのだ。

ただ、「神」を失い、わたしが示した「強い人間として生きる道」も失った人々の先にあるのは、そうした動物の世界だろう。わたしが語った「末人」という未来の人間のビジョンは、まさにそのことなのだ。

 

牧師 それでは、私たちには意外な共通点があることが明らかになりました。あなたは、「神の死」以後の世界で、人々が動物状態に陥らない道を模索しておられる。それをあなた独特の概念で提示された。

そして、わたしは動物状態に陥らない道としての、イエス・キリストの福音を語っている。ある意味では、「神への回帰」による現状の変革を祈っている。あなたとわたしでは、進むベクトルは正反対だが、「動物状態から脱する」という意味においては、同じ目的と言える。

 

ニーチェ まあ、それは認めなくはない。わたしは低俗な動物状態を最も嫌っているのだ。「神」をなくしても、強く生きることができる人間とはなんであるのかが、わたしの哲学の主題なのだ。動物状態への頽落こそ、わたしが生涯かけて戦ったものだ。ただ、お前の「福音」というプログラムだけは、解決策としてまったく認めるつもりはない。そんなものは滅びてしまうのが人間にとって最善だと考えている。

 

牧師 わたしもあなたの「超人」や「永遠回帰」など認めませんし、そんなものを解決策だとはまったく思いません。わたしはキリストという「神人」を信じ、「終末」を信じていますので。やはり根本はあなたとは永遠にかみ合いそうにありませんね。あなたの思想とキリスト教神学は、なんだか光と影みたいだな。

 

ニーチェ ふん。お前にわたしの哲学の真髄をわかってもらおうとは思わないし、お前がわかっているとも思わない。また、わたしもお前の福音とやらを理解したいとは思わない。わたしにとっては、お前の思想こそ暗闇そのものだと言っておこう。

 

牧師 わたしは、「神の死」という時代認識については、あなたの言うとおりだと思います。世界の非宗教化と各自の主観主義化は、今後もいろいろな角度で深化していくと思っています。特に豊かな国で生活している人々は、神を信じなくても快適に生きるすべを心得ています。しかし、わたしが模索したいのは、そんな状況から立ち上がる教会と、その力を与える福音なのです。だから、あなたと対話したいと願ったのです。

 

ニーチェ わたしは、いっそのこと教会がこのまま完全に滅びてくれることを願っているがね。ははは。

 

牧師 「神の死」という世俗化状況が今後も続いていく、という見通しがある一方で、現代では逆の事柄も起こっています。つまり、「原理主義」と言われる、世俗化の完全なアンチ・テーゼとしての非常に保守的な信仰が広がっていることです。世俗化の流れに反発している人々が、こうした原理主義の信仰に入っていっています。

それは、あなたが予測しなかったことではないでしょうか。宗教は滅びるどころか、新しい形で興隆もしています。「世俗」というものが強くなるとき、それに逆対応するように、「宗教」も起こらざるをえないのではないでしょうか。

 

ニーチェ それは一理あることを認めよう。「神の死」が深まれば、そこにある問題性もまた深刻化する。弱い人間は「神の死」の状況に耐えられず、反旗を翻す。

それがわたしの言うような「強い人間」になることによってではなく、「宗教」によって行うということは、歴史的にも十分考えられる流れだ。わたしはそういう時代的逆行については、まったく評価しない。宗教に頼ることなど、人間性の麻痺と弱体化でしかない。

しかし、そういうことによってしか「神の死」に耐えることができない人間がいることは、当然のことだろう。

 

牧師 気になるのは、流行する宗教はやはり世俗のアンチ・テーゼとしてであって、非常に極端な保守主義だということです。穏健でマイルドな伝統的宗教ほど人気がない。新興宗教や、激しい宗教体験を与えるところほど、人が大勢集まっています。「神の死」の状況への反発が根底にあるからでしょうね。「神の死」の状況を変革する可能性の一つとして、そうした原理主義的信仰が求められているのです。

しかし、実際に人間が救われて幸いに生きる可能性を押し広げてくれるのは、わたしはマイルドな伝統的な宗教だと思うのです。これは世俗のよいところをしっかり受け止めたうえでの信仰ですから、安定的でリスクは低く、宗教本来の力を十分に味わうことができます。一方、原理主義的信仰は不安定でリスクが高く、刺激は強いですが長続きするものとは思えません。なぜ、伝統宗教のよいところは、なかなか認められないのか・・・。

 

ニーチェ 「神の死」の状況が深まれば、それに対抗しようとして生じる宗教もまた過激化するしかない。両者は相即しているのだ。宗教に答えを求めないとすれば、「強い人間になること」を自らの価値として、世俗を全肯定して生きることしかない。超越的なものがない世界では、人間自身が自らを超越していく道しかない。それが「超人」ということの意味だ。

 

牧師 「超人」については、また後ほどうかがいます。あなたにお聞きしたいのは、「神の死」の時代はこのまま続くのか、それとも「神の復活」ともいえる、新しい宗教的な時代が来るのか。どちらと思われますか。

 

ニーチェ わたしは21世紀以降のことはわからない。「神の死」の状況が新しい神々を復活させるのか、それとも神が死に、「超人」もまた死に絶え、「末人」だけが跋扈する時代となるのか。

 

牧師 わたしは、「神の復活」の時代が来ると信じています。そもそも、「イエス・キリストの復活」こそ聖書の中心です。であるなら、キリストに従う教会もまた、キリストと共に復活するのは当然のことです。これは普遍的に全世界に、というよりも、局地的・限定的にでしょうけれど、キリストを第一としている教会は必ず復活します。神を賛美する声が街々に響き渡る日がやがて訪れることを信じています。

なぜなら宗教学的に言いますと、さきほど語ったようになんらかの超越的なものを信じることは人間の自然性に属するからです。わたしが考えるに、客観、法則、理想、科学、真理といった超越的なものはいわば「父なるもの」であり、あなたの言うような人間、主観、大地、欲望は、「母なるもの」を意味しています。いわば、あなたの言う「アポロ的(秩序的なもの)」は「父」であり、「ディオニュソス的(陶酔的・一体的なもの)」は「母」です。

人間にとっては、「母」ばかりでなく、「父」と共に生きることは自然なことではないでしょうか。父にも母にも、子供に対して果たすべき役割があります。父がいなければ、それだけ子供はなんらかの負担を背負うことになるでしょう。あなたの哲学は、「父なるもの」を抹殺して、「母」だけにしてしまった、いわば悪い意味での「父殺し」の哲学です。あなたのお父さんであった牧師の神学に代表されるような、「父なるもの」への反逆こそ、あなたの哲学の本質であり、それはわたしにはとても不自然に見えるのです。

いや、これはあなたの問題というよりも、時代そのものの問題です。あなたは、「肯定、肯定」と言い続けています。生や欲望、力への意志の肯定を語り続けた。それは、「一体化」の原理に基づくという意味で、「母なるもの」の原理です。ところが、あなたは「否定による肯定」の可能性に目を閉ざしているように見えます。平たくいえば、子供が経験する、「頑固親父に雷を落とされることによって、人間として大切なことを学ぶ」というようなことです。あなたの哲学は、「母の肯定」については語っていますが、「父の否定による肯定」については知らない。そこが、あなたの根本問題なのです。

すみません。あなた、というよりはこの時代の根本問題です。

 

ニーチェ わたしの最も深い逆鱗に触れることをお前は言っていることに気づいているのか? わたしに、父の話をするな。わたしに、「父なるもの」についての無駄話をするな。それこそ、わたしが生涯かけて否定した、最大の敵なのだ。

 

牧師 いや、そのあなたが生涯かけて否定した敵こそが、あなたの哲学、あなたの哲学を生きる人々を救う可能性を秘めているものなのではないか・・・。つまり、「父による否定」です。

あなたの哲学の根本を粉砕するかもしれない命題を、言わせていただきましょう。「子供は父による否定を通して強くなる」あなたが「強さ」について語り続けながら、あなた自身が強くなれなかった理由がここにあるように思うのです。あなたが、「父による否定」を知らなかったからです。

子供は「父なるもの」に怒られて成長し、強くなるのです。「父なるもの」による否定を退ければ、どんな「超人」を構想しようとも、人間は強くなることはできない・・・。これがあなたの哲学の最大の弱点ではないでしょうか! そして、あなたとあなたの思想に連なる人々が「父による否定」を受け入れることこそ、かえって「強い人間」として自己超越する道になるのではないでしょうか。

 

ニーチェ うるさい! もう結構だ! お前のような低劣な牧師の抹香臭い説教など、地獄に落ちてしまえ!

 

牧師 いえ、ここにあなたの哲学の急所があるのです。だから、最後まで言わせていただきます。あなたは、お父さんである牧師と、その背後におられた「父なる神」を、生涯の執筆活動を通して否定しました。

ところが、現実にはあなたが否定した「父なるもの」こそ、人間が「強くなる」可能性、「自分を超越する」可能性そのものなのです。子供とは、父親が「さあ、ここを飛んでみろ!」と設定するハードルを越えて成長し、ついにその「父」を超えていく存在なのです・・・。父を乗り越え、自ら父となり、やがて父を支える存在になる。それこそ、人間としての本当の「強さ」であり、「自己超越」ではないのですか!

あなたの「父なるもの」への言語を絶した無理解こそが、事実上のあなたの「弱さ」の本質であり、同時にそれはこの時代の根本病理なのです。あなたが語っているのは、実は「神の死」ではない。むしろ、「父の死」なのです。あなたは早くに亡くなられたお父様と、彼が宣べ伝えた「父なる神」に、そしてあなたを学会から葬り去った「客観・真理」を重んじる「父なるもの」の科学精神に対して、生涯かけて復讐したに過ぎないのです。

 

ニーチェ お前のような者は地獄の底へ消えてしまうがいい。お前の言っていることは、わたしにとって最悪の侮辱だ・・・許せん! 今ここでお前に決闘を申し込む!

 

牧師 わたしはあなたと言葉で決闘しているのですから、あなたも言葉でわたしを殴り返せばいいでしょう。第一、あなたは形而上学的シュミレーションのお方ですから、リアル決闘は残念ながらできません。

 

ニーチェ いいだろう。あえてお前の言い方を使えば、お前は「父なる神」を奉じる者だが、わたしは「母なる大地」を奉じている。

お前に聞くが、なぜ「父なるもの」がわたしの時代からお前の時代にかけて衰退し、「母なるもの」が優位を誇っているのか? その答えは「父なるもの」が子供にとって抑圧的だからであり、人類にとって不都合だったからだ。人類は「父」を邪魔だと考え、「父」を殺した。なぜなら「父」は息子や娘を勝手に自分の計画通りにしようとする者であり、子供から自由を奪う存在だからだ。それが息子と娘であるわれわれが「父なるもの」を憎む原因となった。われわれが欲したのは、「自由」だ。「父なるもの」に監督されることに、徹底的に嫌気がさしたのだよ! それが、この状況が生じた理由なのだ。人間が自由に生きるために、「父なるもの」は邪魔だった。だから、人間自身が殺したのだ。それだけだ。「父なるもの」に自由を奪われることに、我慢がならなくなったのだ。

わたしが言いたいのは、こうなるのは「必然」だったということだ。キリスト教は、「敗北」を約束されている・・・。なぜなら、人間にとってもはや「父」は必要ないからだ。必要ないからこそ、「父なるもの」は死に絶えているのだ。

 

牧師 いえ、そうは思いません。「父」は生きていますし、仮に死んだとするなら、必ず復活します。人間には「父」が必要だからです。「父による否定」を通して、人間は強くなる。それは揺るぎない真理なのです。

「父による否定」を拒否してしまったら、どこで人間は自らの間違いを認め、自分の道を改め、新たなチャレンジ精神を養うことができるでしょうか。「母なるもの」だけでは、人間は強くなることはできないのです。

 

ニーチェ おい、このまま殴り合いを続けるのか? さっきからお互い、同じことを言い合っているぞ。なにも進んでいないではないか。まったく話がかみ合っていない。

わたしはあくまで、「神の死」と「母なるもの」の側に立つ。お前は「神の復活」と「父なるもの」の側にある。この先どうするのだ? ここは譲れない線ではないか。

 

牧師 それでは、わたしの方から一歩を踏み出しましょう。わたしたち牧師が語っている「三位一体の神」のなかには、「母なるもの」「ディオニュソス的なもの」がある、としたらどうでしょう?

 

ニーチェ それは虚偽だ。牧師は嘘つきが商売だから、やはり嘘がとてもお上手だな。

 

牧師 いえ、事実そうです。「聖霊なる神」はキリスト者を包み、そのうちに宿るという意味で、「母なるもの」の働きをされます。また、イエス・キリストが罪人を傷つきながら受容してくださる十字架の愛のなかには、「母なるもの」が子供のために犠牲になる愛も含まれています。現代の教会の礼拝のなかには、「陶酔・熱狂・一体感」を重んじるタイプのものもあります。「ペンテコステ派」の礼拝などは、あなたの「ディオニュソス的」という言葉がかなり当てはまると思います。

 

ニーチェ それがなんだというのだ? お前の神のうちに「ディオニュソス的」なものがあるとして、だからなんだ?

 

牧師 つまり、キリスト教の神は「父なるもの」の働きもされるし、「母なるもの」の働きもしてくださる。そういう意味では、あなたの「キリスト教批判」は、それほど該当していないということです。あなたは私たちの神を、ただ男性的なものと決めつけている。聖書の文字に引きずられたのですね。

しかし、よく読んでみると、聖書の神のうちに女性的な部分を見出すのは、難しいことではありません。

 

ニーチェ それが「神の死」とどういう関係がある?

 

牧師 現代が「父の死」と言えるような状況にあり、「母なるもの」が時代精神において優位になっているとするなら、私たち牧師の役割は三位一体の神の「母なるもの」の働きを通して人々を受容し、そのうえで神の「父なるもの」の訓練のもとへと導くことではないか、と思ったのです。

「母の受容」と「父の否定による肯定」を、私たちの神は備えておられる。それは、現代人の救いになるのではないか。そして、三位一体の神への信仰によってこそ、私たちは本当に「父」となり、「母」となることができるのではないか。神こそが、私たちの「父性」と「母性」を覚醒させてくださるお方ではないか。これは、素晴らしいビジョンでないでしょうか。

神の恵みによって、私たちは「父」となり、「母」となる。そして、神を通して成長した一人ひとりが、本当に「子供」を育むことができるのだ! それでこそ、新しい将来を臨み見ることができる。

 

ニーチェ ふん。似非牧師めが。お前の言っていることはすべて、絵空事に過ぎない。そんなもの、空言であり、空論だ。

 

牧師 いえ、ありがとうございます。あなたとの対話によって、一つの道が見えた気がします。「神の死」の時代を乗り越えるのは、「母性的な神の受容の御業」を通して、「父性的な神の訓練の御業」にあずかり、「父性」や「母性」に覚醒した人間たちが生まれることによるのだ、と。

たとえ規模は小さくても、普遍的な問題の解決にはならなくても、そのような人々が父として、母として子供たちを養い、新しい時代を築いていくでしょう。そのことが、私たちの時代の希望ではないかと思います。

 

ニーチェ 反吐が出る。吐き気、吐き気!

 

牧師 結局のところ、「父の死」の時代が深まっていく先は、「母の死」にもならざるをえないとわたしは思います。人間の欲望を統制する秩序や道徳性が減退すれば、その欲望の苛烈な爆発によって人間と大地もまた傷つかずにはいない。

「父」は一見すると邪魔な存在ですが、実は私たちを守ってくれているのです。「父の死」が「母の死」を引き起こし、それはやがて「子供」である私たち人間を滅びのなかに引き込むだけです。

この滅びへの連鎖から救われるためには、やはり「父」が復活するしかない。人間が「父」を見出すしかない。そのために、私たちは父性と母性の統合であられる神を必要としているのです。人間が「父性」と「母性」に覚醒し、時代と社会が「父なるもの」の保護のもと、「母なるもの」にあって養われるために、そのすべてを包括し、それらをもたらす「神」がどうしても必要だ・・・。

これが、あなたとの対話によってわたしが見出した答えです。つまり、「神の死」の時代だからこそ、私たちは「大地の死」にもまた脅かされている。それは「人間の死」を帰結せずにはいない。この滅びから救われるためには、「神」を信じて父性と母性に覚醒することしかない。

父性と母性を統合する神こそが、時代を救うことがおできになるのです。それは、父・子・聖霊なる神であると、わたしは信じます。

 

ニーチェ わたしを踏み台にして支離滅裂かつ馬鹿げた結論を出したようだが、これで満足か? そんなものは結論でもなんでもないことを、はっきり言っておく。お前は似非牧師であり、わたしはキリスト教と、それを広めるお前たちに対して、永遠に回帰してお前の結論を否定してやろう。

 

牧師 わたしはあなたと違って永遠に回帰しませんので、先に行くことにします。あなたと語り合っているうちに、だんだんいろいろな課題に目が開かれてきました。ありがとうございます。

 

 

ニーチェ お前の存在そのものに嘔吐をもよおす。この嘔吐感を解消するために、これからお前を叩き潰して爽快感を得よう。