不満」と「恨み」から自由になる唯一の方法

                  著:齋藤 真行

 

 

1 なぜ人に対して「不満」や「恨み」を抱くのか

 

2 「人への期待」の起源

 

3 「愛されたい」思いを捨てる

 

4 「贈与」にフォーカスして生きる

 

5 「債務者」として生きる

 

 

 

 

 

1 なぜ人に対して「不満・恨み」を抱くのか

 

 日常生活で、私たちの心を占めている「不快で苦痛なもの」のうち、「人への不満・恨み」は最たるものです。

 

 「夫はいつも寝坊して家事を手伝ってくれない」

 

 「妻は家計を助けもしないで、テレビばかり見ている」

 

 「息子にいくら言っても勉強しない」

 

 「上司の小言と、ときどき爆発する怒りが、正直きつ過ぎる」

 

 「5年前に付き合っていたあの人から言われた、あの一言を今でも憎んでいる」

 

 こうした「不満」や「恨み」を、私たちは毎瞬間ごとに抱えながら生きています。それが「普通」の状態になっているので、「不満や恨みがない」状態のことを、ほとんど想像もできないかもしれません。

 

 「不満を抱く」ことは、私たち自身にとって「苦痛」です。ネガティブな感情をもてあそぶことであるため、不満を抱いてぶつぶつ言うだけで、気分も暗くなり、生きているのが楽しくなくなります。

 

 そんな「苦痛」であるはずのものをどうして私たちは後生大事に抱えているのでしょうか。

 

 たとえば、ウニのような針のあるものを手で握りしめると、針に突き刺されて「痛い!」となりますので、すぐに手放します。私たちは、特に身体的な痛みについては、「痛いものを手放す」ことは、容易にできます。

 

 しかし、「不満」や「恨み」といった精神的な痛みとなると、逆に手放すのがひどく難しくなります。

 

 身体的な痛みの場合は、単純にそれが「痛いもの」であるということだけで、手放す理由になります。ところが、精神的な「不満」や「恨み」については、どういうわけか「もういいや」と手放してしまうことが、非常に難しいのです。

 

 アルフレッド・アドラーという心理学者は、「すべての悩みは、人間関係から来ている」と言いました。私たちの「不満」や「恨み」のすべてもまた、人間関係に源があると言っていいものです。

 

 なぜ私たちは、不満や恨みを潔く手放すことができないのでしょうか。

 

 私たちが不満や恨みを抱いているということは、特定のだれかから「傷つけられた」、もしくは「自分の思い通りのことをしてもらえなかった」ということが過去にあるということです。

 

 たとえばですが、机の角に足をぶつけて、それが痛みを引き起こしたとき、私たちは机に対して不満や恨みを抱くでしょうか。

 

 子供なら「この机が悪い」と言って泣くこともあるかもしれませんが、ある程度の大人であるなら、机に対して不満や恨みを抱くことはないでしょう。

 

 机の置き場所を変えたりすることはあるかもしれませんが、自分に痛みをもたらしたものでも、それが意志のない物質であるなら、不満や恨みを抱いても、なんの意味もないことを知っているからです。

 

 しかし、そこに机を「誰か」が置いていたなら、その人に対して不満や恨みを持つことはありえます。

 

 だれかから人格を否定されるような悪口を言われたとき、私たちはなぜ不満や恨みに満たされるのでしょうか。

 

 自分を傷つけたり、期待通りにしなかった対象が「人格」であるときは、その人は「それ以外のこともすることができる自由があったはず」ということを私たちは考えます。

 

 「私を傷つけないことも、私の期待通りに動くこともできたはずなのに、それをしなかった」このことが、不満と恨みのもとになります。

 

 ここでは、その人に対する見方が、二重になっています。その人に対して「私が期待する像」と、「実際にその人がしたこと」が、二重写しになっているのです。

 

 そのギャップが大きくなるとき、私たちの不満や恨みは、それだけ大きくなります。

 

 つまり、不満や恨みというのは、私たちが「想像・予想・期待していたイメージ」を、特定の他者が裏切って別のことを起こすとき、生じるものなのです。

 

 「夫が寝坊ばかりして、家事を手伝ってくれない」という不満は、「夫は早起きして家事を手伝うべきだ」というイメージに基づいています。

 

 「子供がいくら言っても勉強しない」という不満は、「子供は言われなくても勉強するべきだ」というイメージに基づいています。

 

 「あの人に言われた言葉を今でも憎んでいる」という恨みは、「あの人はもっと愛のある言葉を言うべきだった」というイメージに基づいています。

 

 私たちの「不満・恨み」のすべては、私たちが「かくあるべし」と信じている、そうした「想像・予想・期待」が、他者によって裏切られるときに起こるのです。

 

 そして、こうした私たちの側にある人へのイメージは、そんなに簡単に変えられるものではありません。そのイメージは正当なものだと信じ切っているからです。

 

 このイメージが心にしっかりと根を張り続ける限り、私たちはなかなか不満と恨みを手放すことができないのです。私たちの側のイメージそのものが変わらないと、不満や恨みが消えることはないからです。

 

 事情がそうであるなら、「不満や恨み」を解消する方法に対する答えは、実に単純なことになります。

 

 「他者に対して想像・予想・期待するイメージを抱かないこと」

 

 それだけです。

 

 他者に対して、「あの人はこうあるべきだ」「この人はこうなってほしい」などといった、こちら側のイメージをまったく持たないなら、他者に対する不満や恨みは、原理的に生じることがありません。そこでは、「他者に裏切られた」という感覚が、そもそもなくなるからです。

 

 もちろん、傷つけられたり、嫌なことをされれば、そのときは心が痛みます。しかし、それをずっと引きずりながら日常を送る、ということはないことになります。期待と現実のギャップがなくなってしまうからです。

 

 たとえば、「婚約者」である人から「もうあなたのことなど、愛していない」と言われたとします。それは、人生を揺るがす重大な発言として響きます。

 

 逆に、まだ交際していない人から「あなたのことは愛していない」と言われるのは、前者に比べて、ダメージは少なくなります。

 

 なぜでしょうか。

 

 前者の場合は、「婚約者は自分のことを愛しているはずだ」というイメージが非常に強固であるため、それと逆の発言をされると、そのギャップは途方もないものになります。

 

 後者は、「この人は自分のことを愛しているのか、わからない」というイメージが不明確な状況であるため、期待と事実の間のギャップが前者ほどではありません。

 

 つまり、不満や恨みという心理的な苦痛は、私たちが特定の人に対する「期待」とそれを裏切られた「事実」のギャップが大きいほど強くなる、という性格を持っているのです。

 

 だから、私たちが不満や恨みを抱かずに生きる方法があるとするなら、それは「人にまったく期待しない」ということしかありません。人が自分の期待を満たすようにしてくれる、という思いのすべてを放棄するとき、不満や恨みは解消されることになります。

 

 これは、冷静に突き詰めれば、承認せざるをえない答えでしょう。私たちが人になにも期待しないなら、不満や恨みの一切も消えるのです。

 

 

 しかし、実践的にこれが可能かというと、非常に難しいと言わざるをえません。「人に期待する」ことの根は、とてつもなく深いものだからです。もっと深いところにまで、「期待」の根源を見ていく必要があります。