中年の危機を乗り越える8つの方法

 

1章 中年の危機とは

 

 人生の正午

 エリック・エリクソンという心理学者は、人生のそれぞれの時期に向き合わなくてはならない発達課題があることを明らかにしています。

幼少期は「基本的信頼感」という、世界に対する肯定的な態度が培われます。青年期は、仕事の能力を身に付けたり、結婚したりといった、社会的な役割を中心としたアイデンティティの確立をします。社会のなかで、「自分とは何者か」を見出すのです。

そして、壮年期の発達課題は仕事や子育てをしながら、自分に与えられた知識や技術を次の世代に伝えることだと言います。この時期を「生殖期」とエリクソンは語っています。なにかを「生み出す」「建設する」ことに集中する時期です。

 壮年期はそういう意味で、人生のなかで最も建設的で忙しい時期だと言えます。人生のなかで最も大切な仕事を成し遂げる時だとも言えるでしょう。

 ところが、実際にはこの時期は特別な危機的な時期でもあります。身体的にも、精神的にも、非常に大きな変化が起こるのです。

 カール・ユングという心理学者はこの時期の訪れを「人生の正午」と呼びました。この表現は事態を非常に的確にあらわしている言葉だと思います。

 個人差はありますが、生まれてから32歳から45歳に至るころまでは、人生はいろいろな意味で「上昇」していくと言えるのではないでしょうか。

 身体的にも充実していきますし、精神的にもたくさんのことを吸収して知識が広がり、どんどん成長していくときです。太陽が地平線から空へと昇っていくようなもので、「人生はこれからだ」という機運や喜びに満ちているかもしれません。将来に対する可能性や憧れに満ちて、生き生きしているのです。「自分はこれから、なんでもできるのだ」という全能感のようなものを感じやすいでしょうし、今後のことについてワクワクするような期待感を抱くでしょう。

 ところが、32~45歳くらいのどこかの時点で、こうした「上昇」に陰りが見えてくる、ということが起こります。

 多くの人は、身体的にそれを感じます。もっと若かった頃は徹夜で学んだり仕事したりしても大丈夫だったのに、ある時期から急にできなくなります。徹夜してしまうと、次の日に支障が出てしまうのです。夜更かしして仕事したり遊んだりするのが、実務に影響する非効率的なものになってしまうのです。

 記憶力の急激な衰えを覚える人もいます。若いころに知識を貪欲に吸収して、忘れることもなかったのに、いつの間にか覚えられなくなり、そればかりかすぐ忘れてしまうことを経験するのです。

 人間関係の面でも、以前と同じようにできなくなるということもあります。友達ともおしゃべりも、前はものすごく楽しかったのに、この時期になるとまるで時間の無駄のように感じられてしまうこともあるでしょう。

 仕事の面でも以前のようながむしゃらな頑張りがきかなくなるかもしれません。同じような情熱や喜びをもって打ち込むことができなくなる、急に関心が色あせてしまう、ということを経験するかもしれません。

 およそ生活のあらゆる領域に、「人生の正午」は訪れます。それまでのただただ「上昇」すればよかった歩みに、突如として終止符が打たれてしまうのです。

 「まさかこんな感じになるとは思わなかった」と、多くの人は思うでしょう。「若いころの状態のまま、突っ走れると思っていたのに」と失望を覚える人もいるでしょう。

 若い時期は「全能感」や「万能感」に満ちています。自分の将来の可能性に酔いしれているところがあるのです。しかし、こうした膨らんだ思いが急速にしぼんでしまうのが、この時期に訪れる大きな危機なのです。

 

 わたしの経験

 中年の危機に関わる私自身の経験を書かせて頂きます。

 私の働きはキリスト教会の牧師です。赴任してからの5年間で、ほとんど人生前半のあらゆるイベントを経験してしまった、と言えるほど濃密な日々を過ごしました。

 赴任直前に結婚し、牧師としての試験に通り、子供が二人生まれました。教会の働きとしては教会の建物の建築、百周年記念事業、記念誌の編集のほか、礼拝形式や組織の改革、ホームページの立ち上げなど、考えられる限りのことをしました。また個人としても電子形態での著書を10冊書き、ブログも複数運営しました。

 赴任してから4年が経過したころ、自分のなかでパチンとなにかが壊れた気がしました。それまで考え付く限りのことをしてきましたが、自分のなかで「これからどうしていくか」という目標が失われてしまい、これまでの仕事に対する情熱や関心が極端に薄れていることに気づいたのです。

 自分としてはショックでした。牧師というのは、「生きる意味とは何か」を伝えるものです。牧師である自分が、突如として「自分はなんのために生きているのか。このまま人生が終わっていくことでよいのか」ということに悩み始めたからです。

 私は青年期にキリスト教と出会い、大きな喜びを与えられて救われました。その喜びがあまりに力強かったので、これを伝える働きをすることに使命感を覚えていました。

 しかし、神を信じているはずの自分自身の内部に、大きな空虚さが広がっていたのです。

 それからの4年間は、いろいろな意味で試練の時期でした。

 働きを新たに立ち上げるエネルギーが枯渇してしまい、日常の仕事を回すだけで精一杯になってしまいました。また、ときどき自分でも理解できない抑うつ感が湧いてきて、気分を暗くします。その状態で精神科を受診していたら、おそらくうつ病だと診断されたと思います。燃え尽き感もひどく、それまで興味を抱いていた学問の分野の本も、ほとんど読む気がしなくなるようになりました。「だれにも自分のことはわからない」という孤独感も非常に強くなりました。

 私は本から新しいことを学ぶことが大変好きな人間で、さまざまな本を読み続けることが、生きがいにもなっていました。だから本を読む気がしなくなる、というのは恐ろしい経験でした。自分の存在がどこかでまったく変わってしまったような気がしました。このままだらだらと牧師の仕事を続けていいものかどうかということも、疑問に思えてきました。

 本が読めないと、本を書くこともなかなかできません。執筆の働きも停止してしまいました。ブログさえ更新する力もなくなって、停滞状態に陥りました。

 幸い、それまでにいろいろな心理学関係の書物を学んでいたため、これがいわゆる「中年期の危機」の典型的な症状の一つなのだ、ということは早い段階で気づきました。そこで、自分なりにいろいろと対策を講じるようにしました。いくつかの書物の知識を参考にしながら、中年期の危機を乗り越えるために、自分なりに分析や考察を重ね、可能性のある対策をしていきました。

 真っ暗な夜空を方向もわからずに飛び続けるというような経験でした。他にも似たような経験をしている人がいるのはわかっていましたが、自分の手の届く範囲内には、そのときの自分を支えてくれるようなものはありませんでしたので、自分で方向を定めて歩むだけでした。

 その間にも、仕事は続けていましたし、それなりにいろいろな成果もありましたが、私のなかではすべてが停滞しており、大きな虚無感の渦巻のなかにいました。

 そうした状態になってから3年間過ぎたころ、ようやく光が見え始め、4年目で最も危機的なところを脱することができました。そして、この暗闇のなかで得た学びを、同じように中年の危機の課題に向き合って苦労している方にお伝えできれば、と本書を書き始めたのです。

 振り返ってみると、非常に大きな洞察に満ちた旅でしたし、自分のなかでも整理がつかないほどたくさんのことを学びました。旅の最中は闇そのものでしたが、闇のなかで手さぐりしながら、生涯の宝となるような学びをさせて頂いていたのだと思います。

 

 「限界性」の自覚

 中年の危機の本質とはなんなのかと考えてみると、「限界性の自覚」というところにあるのではないかと思います。

 若い時期は特有の全能感や万能感によって、怖いもの知らずに働いたり、冒険したりすることができます。しかし、人生の後半戦にさしかかる30代、40代になると、自分の人生はもはや「無限の可能性に満ちたもの」ではないことに気づきます。むしろ、「非常に限られた限定性・限界性のなかで終えていく」ものであることを自覚せざるをえないのです。

 仮に中年期の危機を感じた時が40歳であるとすると、もう40年経過すれば、完全に引退している年齢でしょう。それまで40年間さまざまなものを積み上げて選択をし続けてきた人にとって、残りの40年間でできることは、非常に限られているのです。もう、進むことができる道はそれほど多くはありません。相当に絞られているのです。そのことが、はっきりと自覚されます。

 ここに迷いが生じます。自分の目の前にある選択肢や限られた可能性をただ黙々と進み続けるだけの人生でいいのか。もっとほかの人生もありえたのではないか。まったく別の展望や希望を抱いて生きることも可能なのではないか。そうした考えが生じても不思議ではありません。

 30、40代でこうした「自分の人生の限界性・限定性」に直面したとき、「ええ、自分はこの限られた選択肢によってできている自分の道を、ただ黙々と進むだけでいいのです」とすんなり受容できる人は、「中年の危機」には陥らないでしょう。陥っても、非常に軽く済むのではないでしょうか。

しかし、そんなにすんなり受容できる人はまれであると思います。自分の限りある命に直面するとき、なんらかの「あがき」を始めるのが多くの人が経験するところです。「こんなところで、このような状態で人生を終わりたくない。もっと素晴らしいなにかがあるに違いないのだ」と考えて、いろいろと解決を求めてあがくのです。

 「自分の限界性・限定性」を身体的、精神的に自覚したとき、「本当はもっと別の人生がよかったのに」というような「別の人生の可能性」への憧れや期待を捨てきれず、「自分の道」を受容できない時には、「中年の危機」は次第に深刻化していきます。

 中年の危機は、自分の限界性・限定性に直面したときに、人がそれに対処しようとして取る心的態度なのです。自分の限界性・限定性とどのように向き合うのか、どのようにこれを受容していくのかということが、この時期の中心的な課題になります。

 

 「影(シャドウ)」の存在

 中年期の危機について深く考察したのは、スイスの心理学者ユングでした。ユングが中年の危機の意味を解き明かすうえで重要な概念として語っていることに、「影(シャドウ)」というものがあります。

 私たちは中年を迎えるまで、数々の選択を積み重ねながら生きています。学校、クラブ活動、習い事を選択し、職業を選択し、伴侶を選択し・・・こうして、数々の自分でくだした「選択」によって自分の歩みが定められてきています。

 しかし、ある一つの選択をすることは、「別の選択肢」を捨てることもでもあります。

 私は牧師になるという選択をしましたが、それによって証券マンになるという選択肢や、学者になるという選択肢を捨てたのです。

 私たちが行うすべての選択の背後に、無数の「捨てられた選択肢」があります。そしてそれらの選択肢のなかには、私たちが今でもかなり魅力的に思うようなものもあるのです。自分としてはその選択をしたかったのだけれど、周囲の状況などによって不可能だったので、やむを得ずに捨てたのだ、というものもあるのです。

 こうした、すべての「捨てられた選択肢」によって構成される「自分の選択から除外された人生の可能性」は、ユングによるとすべて「無意識」のなかに蓄積されています。別の選択肢を選び、別の人生を歩んだ別の「自分」が無意識のなかに住んでいるのです。この選択されることがなかった「別の自分」を、ユングは「影(シャドウ)」と呼んでいます。

 青年期までは、社会との関わりのなかで自分の立場を選んでいきますので、こうした「影」は無意識のなかに蓄積していくだけです。そして、中年期に差し掛かったある時期に、無意識のなかの「影」が次第にうごめいて、意識のなかに浮かび上がってくるのです。

 「別の人生の選択肢・別の人生を生きる自分もありえたのではないか」という迷いや疑問として、表面化するかもしれません。青年期までは、社会的なアイデンティティを獲得することで精一杯でしたが、それが一段落すると、「これでよかったのだろうか」という迷いがわいてきて、これまで積み上げてきたものが疑問になってしまうのです。

 無意識のなかの「別の自分」が動き出して、認めるようにと迫ってくるのです。「影」は「悪」であるというわけではありません。実体化することはなかったけれども、ありえたであろう自分の可能性なのです。この「影」と向き合うのが、中年期の危機の一つの大きな課題となるのです。

 

 「アニマ」と「アニムス」

 また、ユングは男性のなかには女性性が、女性のなかには男性性がある、と指摘します。そして男性のなかの女性的な像を「アニマ」、女性のなかの男性的な像を「アニムス」と呼びました。

 中年期までは、男性なら男性としての自分、女性なら女性としての自分を開花させ、社会のなかに位置づけることが課題になります。特にそれは家庭を持つということにあらわれてきます。伴侶と出会い、結婚することによって、男性としての自分、女性としての自分を確認し、子供の誕生によって、「父」や「母」としての役割を生きるようになるのです。父としての男性には、家庭のなかで期待される特有の機能があり、母としての女性にも同じように期待されるものがあります。具体的なところは家庭によって異なりますが、しかし男性と女性として、それぞれの占めるべき位置があるのです。

 こうして、男性が男性として、女性が女性として開花していくときに、男性のなかの女性性、女性のなかの男性性は、社会的な役割を身に着けるに従って抑圧されて無意識のなかに蓄積することになります。

 中年期になると、無意識のなかにあるアニマとアニムスの像が動き出します。男性は自分のなかの女性性と、女性は自分のなかの男性性と向き合うことが課題となるのです。それぞれの無意識のなかには、表面にあらわれてくるのとは異なる性格が備わっているのです。こうした自分が意識的に選択してこなかった、女性性や男性性を、改めて自分のなかに統合していくこともまた、中年期の課題となるのです。

 

 ゲド戦記「影との戦い」

 「自分の人生の限定性」「影」「アニマ・アニムス」など、この時期に特有の心理的な課題があるのが中年期です。これらとまっすぐに向き合い、これらの課題を引き受けることで、中年の危機を乗り越えていくことが可能になります。

 総じて、中年の危機を乗り越える最大のポイントは、「受容」ということです。上の課題について、次章からさまざまな具体的な取り組む方法を共有していきますが、すべてはただこの「受容」という一点をめぐってなされるものなのです。

 青年期を越えて成長していくなかで、置き去りにしてきたさまざまなものと、改めて対峙し、向き合い、それらを自分の一部として受容していくのが、中年期の危機を乗り越えることにつながるのです。

 ル・グウィンという人が書いたファンタジー小説に『ゲド戦記シリーズ』というものがあります。私はこの第一巻はとても好きなのですが、「影との戦い」というタイトルです。ゲドという高慢な少年が魔法使いの弟子になるのですが、やがて彼は悪友にそそのかされて禁じられている術を使い、自分の「影」を呼び出してしまいます。「影」はゲドを取り込もうと、追いかけてきます。ゲドは「影」から逃げ続ける生活をしますが、ある時、師匠のところに帰って助言を受けます。師匠は「影」をむしろ狩りに出よ、と言います。「影」から逃げるのではなく、立ち向かっていけ、戦いに行け、というのです。ゲドが師匠の教えに従って「影」に立ち向かっていくと、今度は「影」が逃げ出すようになります。

 やがてゲドは最果ての島で「影」と向き合い、「影」と一つになります。「影」を自分のものとして受容するのです。こうして、「影」との戦いは終わります。

 私はずっとこの物語を、「青年期に多くの人が味わう自分の弱さ、汚れ、罪を自分の課題として引き受ける」という物語なのだと解釈してきました。しかし、改めて思い起こしてみると、これは中年の危機の物語として読めるところもあります。「影」をどう理解するかによりますが、これを選択によって除外して自分の無意識のなかに残してきたシャドウだと考えると、この「影」を自分の一部として取り込むことによって「大人」となるゲドの姿は、中年期の危機を越えてより深みのある大人となるという発達課題とも重なるのです。

 やはりこの物語でも、解決となる大切なポイントは「受容」ということです。ゲドは「影」におびえて、逃げ続けている間は、一向に前進することができませんでした。しかし、「影」と向き合い始めたとき、新しい局面が開かれていったのです。なぜなら、「影」とはゲドと無関係な存在ではなく、むしろゲドの一部だからです。自分自身から逃走し続ける限り、解決はありません。自分の内面と向き合うことを通して、新しいステージに導かれるのです。

中年期に抑圧してきた無意識のなかの「影」や「アニマ・アニムス」が動き出すと、意識は脅かされ、心理的な危機に陥ります。多くの人は、そこから逃れたいと思うため、非現実的な解決策にすがろうとします。抑うつ感や葛藤、内面的な矛盾感などに苦しむことになります。しかし、それらのものを「受容」することに、この危機の意味があるのですから、課題から目をそらしていては危機を脱することはできず、むしろ深まるばかりなのです。

 

 「個性化」の過程

 もう一つ、中年の危機の時期に大切な課題となるのが、「自己」を深化させていくことです。ユングはこのことを、「個性化の過程」と呼びました。

 青年期までに、ある程度社会的なアイデンティティが確立され、自分が何者であるか、ある程度定義されているなかで中年期を迎えたとします。そして、社会的にそれほど「成功」しているとはいえず、人並みの状態だと考えてみましょう。

 こうした人が、自分と同年代の知人が大成功・大活躍しているのを知ったとします。この人が中年の危機の時期にあるならば、心が動揺し、嫉妬や羨望、「このままでいいのか」という疑いと迷いを強くします。中年の危機的な状況にある独身の女性が、家族で楽しそうに暮らしている人を見ると、焦りや孤独を深く感じるかもしれません。

 ここにあるのは、「人との比較」によって「自己」が揺り動かされ、確立したはずの自分が疑わしいものに思える、ということです。

 最近はインターネットの発達によって、友人や知人がどういう状況にあるのか、知りやすくなっています。中年の危機を味わっている人が友人や知人が成功していたり、幸せそうにしているのをネット上で知ると、たまらなくつらい気持ちになったります。

 中年期を迎えるとき、改めて自らの歩みを振り返ると、あの友人や知人のような別の道を歩む可能性があったのではないか、今の自分とはまったく違う世界を生きることも可能だったのではないか、と考えてしまうのです。

 青年期に確立した「自己」を中年期に振り返ると、「人との比較」によって疑わしいものに思えてしまうのです。「自分は大変な間違った人生を歩んでしまったのではないか」という疑念に苦しめられたりします。

 ここで、道は二つに分かれます。こうした「人との比較」による疑いや迷いの圧力に負けてしまい、これまで積み上げてきたものを投げ捨ててしまうのか、それともこれまでの歩みもまた自分の大切な一部であると受容して、更にこれまでの道を極め、深化させていくか、どちらかです。

 この両者の道の間で疑いと信じる思いに翻弄されながら、自分の道を決断するところに立たされるのも、中年期の大切な課題なのです。

 この世界でただ一人しかいない、「自分」というオリジナルな存在の道を深化させ、極めていくのか、それとも「人との比較」によってこれまでの自分を捨てて、まったく違う道を選ぶのか。こうした選択を迫られるため、中年期は青年期とはまた違った危機を味わうのです。この世界でオンリーワンな「自己」を極める道に踏み出すことができるのか、「人との比較」の圧力に勝つことができるのか、という岐路に立つのが中年期なのです。ここでどのような選択をするかによって、今後の自分の在り様が大きく変わってきます。

 

 ヘーゲルと実存哲学

 哲学史をひもとくと、それが人間の発達段階とどことなく重なるため、面白いところがあります。

 青年期は、哲学者でいえばヘーゲルのような時代です。ヘーゲルは、人間の精神がさまざまな経験と学びを重ねることによって次第に成長し、やがて人類が共通に抱くような大きな課題に取り組むことができるようになることを描いた哲学者だと私は解釈しています。私たちの精神が困難や壁を乗り越えながら前進していく姿を描いている点で、大変励まされる思想を展開してくれています。精神の「成長」や「発展」といった局面を描いてくれているところがあるという点で、青年たちが大人になっていく過程を見る思いがするのです。

 しかし、ヘーゲル以後、哲学者たちはそれぞれの派閥に分裂していきます。特に実存主義の哲学者たちは、ヘーゲルの考えた「弁証法による総合」という「成長・発展」の論理を分解して、「個々人の主体性」こそが大事だ、と考えるようになります。大きな総合ではなく、個々人それぞれにおいて異なる独自性のある真理があるのであって、そのすべてを「総合」という形で飲み込んでしまうのは不当だ、というのです。

 この実存主義の哲学は、青年期を越えて中年期を迎えた人が、「個性化の過程」を歩んでいくのに類似しており、興味深く感じます。すべてを「総合する」という青年期の誇大な理想主義が、「個々人でそれぞれ違っている、主体的で相対的な歩み」に個別化するのです。

 この実存哲学のなかに、中年期的なあり方があるように思います。つまり、自分ひとりが成長することですべてを総合して飲み込んで王様になる、というような理想主義は中年期に通用しなくなってしまうのです。むしろ、「私なりの道」「私なりの真理」「私なりの世界観」「私なりの独自性」といった、他者と異なっている自分自身のオリジナルで主体的な選択や思考といったものを信じて個性化の歩みを深め、極めていく、というところに中年期の歩みがあるのではないでしょうか。

 

 中年期は以上のような、複合的な課題を背負い込む時期です。これをどう解きほぐし、解決していくのか、その具体的な方法をご提案したいと思いますが、その前に中年期の危機の落とし穴について考えてみたいと思います。

 

 

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