「人生の意味」の正体

齋藤 真行

 

 

1 「人生の意味」の正

 

2 「人生の意味」を感じるに

 

 「人生の意味」となる

 

 「人生の意味」本質

 

 「人生の意味」を求め

 

 

 

 

 

 

1 「人生の意味」の正体

 

 「わたしって、なんのために生きているのだろう」

 

 「これから生きていく価値があるのだろうか」

 

 「そもそも、自分はなぜ生きているのだろう」

 

 こうした問いかけを抱くときがあります。

 わたしが初めて、この問いを抱いたのは、大学受験のための浪人をしていたときでした。

 毎日退屈な受験勉強をしているとき、この問いがしきりに思い浮かびました。この問いは、心にずっしりと重い石のようにのしかかり、焦りと憂鬱で満たしました。

 

 大学に行った後も、特にしたいこともなく、するべきこともわからず、ぶらぶらしているときに浮かんできました。

 別のときは、病気で倒れて、じっと天井を見つめているときに浮かんできました。

 また、失恋や失敗などで、人から拒否されたときにも同じように浮かんできました。

 この問いは、決して心地よいものではなく、むしろ心を暗く、重くする強い痛みをもって、だれにともなく問いかけられました。

 

 なぜ、人はこのような問いを抱くのでしょうか。

私たちは、どのようなときにこの問いを抱くでしょうか。

 

 いろいろと自己分析してみると、多くの場合この問いは、「空白期間」に湧いてくることがわかります。

 

 おもしろい学問を見出して必死に勉強しているときは、この問いが浮かぶことはありませんでした。

友達と楽しく活動しているときも同様です。熱心に仕事に取り組んでいるときも、この問いは出てきません。夢中に恋愛しているときにも、この問いを抱くことはほぼありえないでしょう。

 

 しかし、たとえばそうした学びや活動が一段落して終わってしまい、「特にすることがない」というような「空白期」になってしばらくすると、途端にこの問いがむくむくと湧き上がってくるのです。

 

 特に、青年期に「やりたいことをやればいいと言われても、したいことも特にない」とつぶやきながら、ぶらぶら目的もなくさまよっていたときなどは、この問いの痛みは熾烈なものでした。

「人生の意味がわからないなら、もうここから消えてしまった方が、世のため人のためになるのでは」という思いに付きまとわれる苦しい経験でした。

 

 人によっては、こうした問いかけに心乱され、精神的な病にまで至ることもあります。

 

 なにかに熱中して取り組んでいるときではなく、「空白期」にこの問いが出てくるのは、どうしてでしょうか。

 

 もう一つの疑問は、そもそもなぜ人間はこの問いを抱くのか、ということです。

 少なくとも、人間以外の動物はこの問いを抱きません。

また、学齢期以前の幼い子供もこの問いは抱きません。ある程度自我が確立された人が、この問いを抱くのです。

 

 このような問いを抱いても、実際上の生活のためには、ほとんどメリットはありません。仕事して食べて寝て、子供を産んで育てるうえで、この問いはほとんど実践的意味がないように見えます。

むしろ、この問いを抱かないほうが、悩みもなく快適に生きることができるのではないか、とさえ思うのです。

 このような問いに「足止め」されること自体が、人生にとって生産的なことではありません。この問いを問わないほうが、建設的に歩むうえで、メリットが大きいはずです。

 

にもかかわらず、なぜ人間はこの問いを問うのでしょうか。

 悲しいことですが、自死をする多くの人がこの問いを抱いています。「自分がなぜ生きているのか、わからなくなった」とつぶやきながら、命を絶ってしまう人が大勢います。

この問いは人間の生死を左右するほどの、とてつもないインパクトをもつものともなりえます。

この問いをめぐって、生死に関わる激しい戦いがなされているのです。

 なぜ、私たちはこの問いを問いかけるのでしょうか。

 

 突き詰めて考えてみると、この問いは「外部世界と自分が切り離されていると感じる」ときに、私たちを襲うものである、という共通点があるように思います。

 「外部世界」とは、自分を取り囲む人間、交わり、物、環境、といったもの全般です。

 

 必死に勉強している人は、書物を通して「知識」という外部につながっています。

 恋愛している人は、恋人を通して外部につながっています。

 仕事をしている人は、作業を通して外部につながっています。

 

こうした働きに没頭しているとき、私たちは「自分に生きている意味があるのだろうか」と、問うことはしません。少なくとも、その働きをしている間は、「外部世界」とつながることで、あの問いが満たされ、忘れているのです。

 しかし、その働きが終わって、「特にすることがない」という状態のときは、外部世界とのつながりが絶たれていると感じるため、あの問いが湧いてきます。

 

 「意味」とは、「自分の定義」ということです。「自分はこれこれの者である」という自分自身の内容です。

 ある人は「学生」であり、ある人は「夫や妻、父や母」であり、ある人は「イラストレーター」であり、ある人は「研究者」であり、ある人は「起業家」です。

 

 それぞれ、各人は与えられている社会的な位置や役割によって、意味が与えられています。それぞれの時期の「人生の意味」は、学生なら学生として、親なら親として、職業人なら職業人としての本分を尽くすことによって満たされるものです。

 

 学生なら「勉強」することによって、親なら「養育」することによって、職業人なら「仕事をする」ことによって、「人生の意味」を実感することができるのです。

 

 私たちは、自分自身の置かれている状況に即して、定義を自分でくだすことができますが、その定義を実感として「確認」するのは、外部とのつながりによるものです。

 「わたしは医者です」と、自分を定義している人がいるなら、患者の治療に実際的に取り組むことで、「医者」という自分の定義を確認することができます。外部とつながり、働きかけることによって、自分自身の「意味」を知ることができるのです。

 

 患者を一人も治療していない人が、「自分は医者です」と言っても、妄想に過ぎませんし、やがて自分でもそれを信じられなくなります。「治療行為」という外部への働きかけが、「医者」としての自分の定義を支え、確認するものとなっているのです。

 私たちの自分自身の定義と内容は、外部とのつながりをもち、外部世界に働きかけることよって確認し、実感することができる性格のものなのです。

 

 人間は事実上、外部世界とまったく切れている、ということは生きている限り、どんな場合でもありえません。その人の周囲には町が広がり、書物があり、大気が囲み、人々が住んでいるのです。

たとえ仙人のような文明の外にいる存在であったとしても、その周囲には森や山が広がっており、外部と切れていることはありません。人間として生きるということは、どんな形においてでも「外部世界」と事実上切れている、ということは不可能なのです。

 

 しかし、「主観的に」であるなら、それがありえます。

つまり、「客観的に外部と切れてはいなくても、自分の主観的な思いからして外部とのつながりが切れているように感じる」ということなら、ありうるのです。

 客観的にはあらゆる存在に取り囲まれておりながらも、それらとの積極的な結びつきを持っていないため、「つながり感」を得ることができていない、というときです。

 

 ある学生が親に養われ、学校に行き、仲間が周りにいても、なお自分自身が主観的にそれらの存在に働きかけず、自分の定義を確認できないときには、その人は「生きる意味」を実感することができない、ということになります。

 

 あの問いかけが「主観的に」存在するものであるなら、「人生の意味」の主な課題は、私たちが主観的に外部との「つながり感」を得ることができているかどうか、ということに尽きるのです。

 

 「外部世界とつながっている」という実感があるところでは、「人生の意味」についての問いかけは満たされ、出てくることがないのです。

 

 わたしが受験に失敗し、浪人してふらふらしていたときは、自分が外部とつながっている、という思いを持つことができませんでした。

 失恋して落ち込んでいるときも、外部から拒否されたという思いに浸っていました。

 したいことがわからないというときは、自分を外部の社会に位置づけることができず、自分の定義を失っていました。

 

 逆に、外部世界に積極的に働きかけ、外の世界と自分とが太いパイプでつながっているという思いを抱いているときは、人生に充実や喜びがありました。

 

 おもしろくて仕方ない本に出会ったときは、外部との深い一体感がありました。

 夢中で仕事しているときは、心が喜びに踊っていました。

 婚約した人とデートしているときには、大きな高揚感がありました。

 

 それぞれ、外部への働きかけにより、「学生」として、「社会人」として、「婚約者」としての自分の定義・意味内容を確認できたからです。それが、その時期の「人生の意味」となっていたのです。

 

 ということは、「人生の意味」の正体とは、「外部に働きかけてつながることで、自分の定義を確認できること」だ、と言っていいと思います。

 この「外部とのつながり」が希薄になると、「自分はなぜ生きているのか」と問い、この実感が強くなると、「生きているのは楽しい」と感じるのです。

 

 大切なのは、私たちがつながるその「外部」の対象がなんであるかについては、それほど重要ではない、ということです。

 「庭の掃除」という仕事であっても、夢中にやっていると、おもしろさや充実を感じます。

 逆に、非常に専門的な仕事であっても、嫌々ながら、おざなりにやっていると、そこに「意味」を感じることができず、つまらなくなります。

外部との「つながり感」が希薄で、自分の定義も確認できないからです。

 

 非常に「主観的」であるのが、「人生の意味」の基本的な性格です。

自分がつながる「なにか」が、社会的にどう評価されており、客観的にどういうものであるか、ということは「人生の意味」を実感するうえで、それほど重要ではないのです。

 

 

 「外部世界のなにか」との「つながり感」を得ることで、その時与えられている自分自身の定義を確認・実感できることが、「人生の意味」の正体なのです。