信仰の救急箱 

 

目次

 

 教理篇

問1 イエスが救い主であると、どのようにわかるのですか?

問2 イエスの復活はフィクションではないのですか? 

問3 イエスの復活は、私たちにとってどういう意味がありますか?

問4 「イエスは私たちの罪のために十字架にかけられた」とはどういう意味ですか?

問5 私の「すべて」の罪が十字架で赦されたのですか?

問6 そもそも、「罪」ってなんですか? 

問7 神の善悪の判断基準って、具体的にはなんですか? それに即して考え、行動することは本当にできるのですか?

問8 私たちが実行できない愛の律法を神が守れと言われるのは、おかしくないですか?

問9 「義認」や「聖化」の歩みから外れてしまうことはあるのですか? もしくは、そうしたものをまったく失ってしまうことはあるのですか?

問10 「義認」についてわかりやすく教えてください。

問11 「聖化」についてわかりやすく教えてください。

問12 「最後の審判」ってなんですか? 本当にそういうものがあるのですか?

問13 イエスを信じることなく最後の審判を迎えた人はどうなるのですか?

問14 天国ってどんなところですか?

問15 地獄ってどんなところですか?

問16 「悔い改め」ってなんですか? どうすることですか?

問17 「私たちは神によって造られた」とはどういうことですか?

問18 どうすれば神の導きを受けることができるのですか?

問19 聖書が神の言葉とはどういうことですか?

問20 聖書の中の非科学的な部分はどう考えたらいいですか?

問21 自分が神に選ばれているかどうか、わかりません。選ばれていないと思うと怖いです。どうすれば自分が選ばれているかどうかわかるでしょうか?

問22 なぜ洗礼を受けなくてはいけないのですか? 信じるだけではだめですか?

問23 聖餐のパンとぶどう酒がキリストの体と血であるとはどういうことですか?

 

 信仰生活篇

問1 説教をどう聞けばいいのでしょうか?

問2 なぜ祈らなくてはいけないのですか? 祈りってなんですか?

問3 いくら祈っても祈りが聞かれないのですが、どうしてですか?

問4 奉仕が重荷になるときはどうしたらいいですか?

問5 教会の交わりと一般の人間関係の違いはなんですか?

問6 教会への献金はいくらしたらいいのでしょうか?

問7 どう伝道したらいいでしょうか?

問8 どう牧会したらいいでしょうか?

問9 信仰は健康とどういう関係にあるんですか?

問10 うつ病で苦しくてたまりません。私は神に見捨てられているのでしょうか?

問11 体に障害があります。私は神に嫌われているのでしょうか?

問12 知的障害があって信仰告白ができないと、洗礼を受けることはできないのですか?

問13 病気になるのは罪に対する神の裁きなのでしょうか?

問14 仕事で日曜日に教会に行けません。どうしたらいいですか?

問15 仏式、神式、その他日本の習慣にある諸行事に参加してもいいのですか?

問16 やりたいことが見つかりません。天職はどうやって見つけたらいいんでしょうか?

問17 キリスト者は「成功」というものをどう考えたらいいでしょうか?

問18 お金についてはどう考えたらいいんですか?

問19 思春期、青年期をどう過ごしたらいいでしょうか?

問20 結婚前にセックスしてもいいのですか?

問21 マスターベーションは罪ですか?

問22 どのように結婚相手を見つけることができますか?

問23 好きな人と交際する期間はどのように過ごしたらいいですか?

問24 キリスト者でない人と結婚してもいいのでしょうか?

問25 失恋しました。どうやって乗り越えたらいいでしょうか?

問26 避妊してもいいのですか? 神の意志に反していないですか?

問27 子供をどう信仰に導いたらいいでしょうか?

問28 離婚するのは神の意志に反していますか?

問29 すぐに傲慢になってしまいます。いつも謙遜でいるにはどうすればいいでしょうか?

問30 自殺は罪ですか? 自殺した人は救われないのですか?

問31 悪口、陰口、悪い噂話にはどう対処したらいいですか?

問32 お酒、煙草、ギャンブルはしてもいいのですか?

問33 自分の行っている教会がカルト的かどうか、どうやって見分けることができますか?

問34 キリスト教以外の諸思想にどういう態度を取ったらいいですか?

問35 どう死の備えをしたらいいでしょうか?

 

 


 

問1 イエスが救い主であると、どのようにわかるのですか?

 

 イエスはキリスト

 「イエス・キリスト」という名前は、「山本太郎」のような、苗字と名前からなっているものではありません。「キリスト」はギリシャ語で「救い主」を意味する言葉です。つまり、「イエス・キリスト」という言葉は「救い主イエス(イエスは救い主)」という意味です。つまり、この言葉は信仰を告白したものだ、と言うことができます。これを告白した教会の信徒たちは、「世にはいろいろ『私こそが救ってあげよう』『見よ、ここにこそ救いがある』というものがある。しかし、イエスこそが救いなのだ。イエスによってこそ私たちは救われるのだ」という信仰をこめて、「イエス・キリスト」という名前を呼び、書き記し、語りました。しかしそれでは、どのようにイエスこそ救い主だとわかるのか、という疑問が起こってきます。世界人口の3分の1はクリスチャンだと言われていますが、残りの人々はイエスを救い主だとは信じていません。日本においては、1パーセントに足りない人々だけがイエスこそ救い主と信じています。つまり、ある人にとっては救い主である人が、別の人にはそうではない、という現状があります。そうであるなら、どのようにイエスが救い主とわかるのか。

 

 復活によりキリストと知る

 実は、イエスのことをキリストであるとわかるのは、ただ次の一点を知るときなのです。それは、イエスが死者の中から復活したのを信じるときです。この復活、というのはこういうことです。もしイエスが愛に満ち溢れたすばらしい生涯を生きたにしても、十字架にかけられて殺されてそれで終わりであったなら、それは「過去の偉人の一人」に過ぎません。実際、多くの人はイエスのことをそう考えています。「偉大なリーダー」「革命家」「真の預言者」そう考えている人は大勢います。つまり、イエスはそういう多くの人々にとっては、「過去」に属する人であって、言ってみれば「偉いかもしれないが自分と関係ない昔の人」という位置づけなのです。ところが、イエスが死者の中から復活された、ということはイエスが「過去」に埋められ、忘れられる存在ではなく、過去を象徴すると言える墓を突き破ってよみがえられ、今を生きる私たちと共にいてくださる存在だ、ということなのです。パウロという人物は「イエスは生きておられる」といつも語っていました。使徒言行録25章19節以下にはこうあります。「パウロと言い争っている問題は、彼らの宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです」この言葉を言っている人にとっては、イエスは死んでしまった者に過ぎませんでした。しかし、パウロにとってはイエスは生きておられる方だったのです。それは、パウロが復活したイエスに出会ったからです。決定的にダマスコ途上で出会ったのです。だからこそ、パウロにとってはイエスは過去の人ではありませんでした。現在生きている自分と共にいて救いの業をなし、働いてくださる方だったのです。このように、イエスの復活を信じる、というのはイエスが今を生きるこの自分に関わり、共に生きてくださる方であることを知ることです。これを知ったら、もうイエスを単に「偉大な人」という風に考えることはできません。永遠に共にいてくれる存在は、単なる偉い人であるわけがないのです。自然と「イエスこそ救い主」と信じるようになります。イエスは復活によって、永遠の命を生きる栄光ある肉体によみがえりました。そして、世の終わりまで私たちと共にいてくださるのです。

 

 聖霊により信じる

 ところが、イエスが死者のなかから復活した、と信じるのは並大抵のことではありません。というよりも、人間には無理です。パウロが復活を説教したとき、ギリシャの哲学者たちは「ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17:32)とあります。私たちは、どんなよい牧師に復活ということをいくらしっかり教えてもらったにしても、自分の意志や努力で信じることはできません。復活を信じるのは、聖霊の働きによるのです。神が私たちに働きかけてくださらないのならば、私たちは決して心から復活を信じることはできません。普通、これを聞くと、馬鹿馬鹿しい話に聞こえるでしょう。「その復活というものを信じたからって、いったいなんなのだ。なんの役に立つのか」と思えます。人間の理性や常識からすれば、変なものにしか思えないでしょう。しかし、ここに救いの出発点があります。復活を信じてイエスと出会うことによって、私たちは信仰生活のスタートラインに立つのです。そのスタートには、聖霊にしか、神にしか私たちを立たせることはできないのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)とある通りです。

 

 イエスとの出会いへの備え

 では、どのように復活を信じることに、もしくはイエスとの出会いに備えればいいのか。これについてはこのようにあります。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(ヨハネ14:21)「現す」というのは、イエスとの出会いです。それには、イエスの掟を受け入れ、それを守ることで備えるのです。聖書に記されているイエスのいろいろな教え、戒めを受け入れ、守ってみてください。「敵を愛しなさい」であっても、「忍耐強く祈りなさい」であっても、いろいろな掟が書かれていますが、それを実生活の中で守ってみてください。そうすることによって、イエスとの出会いに備えることができます。もちろん、そうしてみれば、それがどんなに大変なことか、すぐにわかります。しかし、それが非常に大切です。葛藤があるでしょう。痛みや苦しみも感じるかもしれません。疑問もあふれるばかりにわいてくるでしょう。しかし、イエスはそのような人のそばに歩み寄ってこられます。

 復活を信じること、それによって私たちはイエスこそキリストだと知ることができます。

 

 

 

問20 聖書のなかの非科学的な部分はどう考えたらいいですか?

 

 常識外れの聖書

 聖書のなかには、いろいろな常識や科学からすればまったくおかしいとしか言いようがないことが書かれている部分があります。創世記の最初の部分は神話にしか思えないですし、ロバがしゃべるところもありますし、ヨブ記では巨大な怪物が出てきます。また、イエスやペトロが湖のうえを歩いたり、足の不自由な人が歩けるようになったり、現代の科学からすると解釈し難い出来事が数々描かれています。こうしたすべてについて、私たちはどう考えるべきでしょうか。

 

 二つの極端な間違い

 この問いに対しては、注意すべき二つの間違いがあるのです。まず警戒すべき間違いは、「これらはすべて非科学的で無意味な話なのだ。だから、できるだけこうした非科学的な部分をはぎとって、現代に合わせて再解釈するべきだ」とこうしたすべてを切り捨ててしまうことです。次に気をつけなくてはいけないのは、「これらすべては人間の目には非科学的でも、全能の神はなんでもできるので、これらは実際に起こったこと、科学的な事実を描いているのだ」とこうしたすべてをまったくの事実として鵜呑みにしてしまう、という間違いです。

 

 聖書は神を語るもの

 第一の間違いにしても第二の間違いにしても、聖書の本質を理解していないところから来る間違いです。聖書は「神」について語っているものです。聖書のすべての言葉は、神を語っていると言えるのです。ですので、それらすべての言葉が神についてどう語っているのか、それを聞くのが聖書を読むということです。この点を見失っていると、間違いが出てくるのです。第一の間違いは、聖書のなかで当時の時代の世界観や時代特有の思想を語っている部分はすべて神を語ってはいない、と考えるところから出てきます。だから、そういう部分はすべて切除して、神を語っているところだけを読もう、ということになるのです。しかし、これについては聖書のすべての言葉は神を語っている、ということをよく考えてみる必要があります。当時の時代の世界観や特有の観念、神話のようなものを語っているところがあっても、それらを道具として用いながら聖書は神を語っているのです。そうした道具を切り取って、神だけを純粋に読むということは決してできないのです。そうした道具を通して聖書は神を語っている以上、私たちもそうしたものを通して神について読み取る以外にありません。大切なのは、道具をしっかりと受け止めつつも、それらを通して神について読み取ることです。道具に縛られてはなりませんが、道具を無視することも間違いです。「この世界観や観念は時代遅れで現代では無意味だ」とするのではなく、それらがどういう神を語っているのかをよく見つめるのです。それらの道具の目的は神を知ることにあるのです。たとえば、イエス・キリストの処女降誕のことを考えてみましょう。これは明らかに非科学的であり、また神話としか思えないものです。けれども、よくこのことに耳を澄ませるとき、神のメッセージが聞こえてきます。なぜイエスは処女から生まれなくてはならなかったのでしょうか。それは、イエスの本来の父は神であることを示すためではないでしょうか。イエスのまことの父は、ヨセフではなく神であることをこのことは教えてくれます。だからこそ、イエスは真の人間であり、また同時に真の神である、ということを処女降誕は教えてくれるのです。また、すべての人間は男性と女性から生まれてくるので、アダムに属するものです。つまり、アダムの子孫として、罪人として生まれてきます。しかし、イエスに限ってはアダムに属するものではなく、罪のないものなのです。罪のない方であるからこそ、人間の罪の贖いができるのです。処女降誕はそのことをも教えてくれます。イエスがアダムの子孫ではなく、パウロの言う「最後のアダム」(一コリント15:45)となられるためです。処女降誕の物語は、イエスがどんなお方なのか、その本質を私たちに示してくれる物語なのです。このように、こうした非科学的な言葉のすべては、神を語るための道具、イメージ、象徴として用いられているので、こうしたものを切り捨てることはできないのです。処女降誕にしても、これを切り捨てたらイエス・キリストの本質がわからなくなってしまうでしょう。むしろ、こうしたものをしっかりと調べ、よく理解することによって初めて、私たちは神のことをも知ることができるのです。

 

 聖書は「なぜ」を語る

 第二の間違いは、「聖書は科学的にも事実を描いている」ということから出てくる間違いです。聖書は科学の教科書ではありません。神について教えてくれるものです。「聖書は神の言葉であって科学的にも間違いはない」というのは聖書の役割と科学とを混同しています。私たちの生きる現実を、科学は「これらはどのようにできたのか? どのように動いているのか?」という視点からとらえています。しかし、聖書は「これらはなぜできたのか? なぜこれらはこのように動いているのか?」と、私たちの生きる現実や出来事の意味を語るもの、「なぜ」という問いに答えるものなのです。科学とは、現実をとらえる視点がまったく違うのです。科学が「どのように?」なら、聖書は「なぜ?」を扱うのです。聖書が神の言葉であるというのは、聖書は神について、「なぜ」という問いに対して間違いなく答えてくれる言葉ということなのであって、科学的に間違いのないことを語る、という意味ではありません。ここを見落とすと、あの第二の間違いがでてきます。聖書に描かれているすべての非科学的な出来事をも、科学的な事実として信じなくてはいけない、ということになってしまうのです。これは、人間の健全な理性や常識的な感覚を麻痺させないと決して成り立ちません。それこそ、聖書の言葉を事実として「鵜呑みにする」以外にはないのです。これは、人間から考える自由を奪い、理性と判断を麻痺させてしまうということにおいて人間性をまったく抑圧するものです。聖書に語られていることは、あくまで神を語っているのだ、ということに立ち返らなくてはなりません。聖書は科学的事実を語ってはいません。神について私たちが知るべきことについて教えてくれているのです。だからこそ、私たちは「この箇所は神についてどう語られているのか。神についてなにを教えてくれるのか」と問うのです。そして、それを聞き取ることに聖書の役割を見るのです。

 聖書は非科学的なことも語っていますが、これらを切り捨てることなく、また科学的な事実とするのでもなく、これらを通して神についてのメッセージが聞こえてくるのです。それを聞きもらさないようにしましょう。

 

 

 

 

問16 やりたいことが見つかりません。天職はどうやって見つけたらいいんでしょうか?

 

 なにをしたらいいかわからない

 今の時代は、進路の選択肢が非常にたくさんあります。大学生になっても、「これをやりたい」というのを見つけるのは困難です。いろいろな可能性がありすぎて、また自分自身のことがよくわからず、なにをやるのが自分の使命なのか、なにが自分の天職なのかを見出すのが大変難しい時代になっています。現代の青年たちが「やりたいことがない」と言っているのはある意味当然です。やりたいこと、天職を見いだしている青年は一握りに過ぎないでしょう。多くの学生が、自分の使命がわからずに悩んでいるのが現状かと思います。

 では、どうやって私たちは自分の使命を見出すことができるのでしょうか。「これだ。これに自分の生涯をささげよう」と思うものをどのように見つけることができるでしょうか。それを考えてみたいのです。

 

 良心に従う

 まず、第一は「良心に従いなさい」ということです。それは「内から響いてくる神の声」ということもできるかもしれません。内なる良心の発する声に従っていけば、天職を見出すことができます。おそらく、多くの人は今既に「これをやってみたい」というものがあるのです。ただ、いろいろなことを考えて、それを覆いふさいでしまっているのです。良心は、「それをまずやってみなさい」と語り続けているのに、「どうせまただめさ」とやる前からあきらめたりしてしまっているのです。そういうときは、自分の声でなく内なる声に従ってください。「これをしてみたい」と良心が示していたら、それをしてみてください。それは、もしかしたら直接には天職ではないかもしれません。しかし、それは天職へと近づく第一歩と必ずなります。「これをしてみよう」と、いろいろなことをやってみて、初めて自分になにが向いているのか、自分の賜物がなんであるのかがわかるのです。なにもしなかったら、決して自分自身に与えられているものがなんなのか、知ることもありませんし、「こんなことができたらすばらしい」というビジョンを描くこともできません。そこで、自分の内から「これやってみたいな」という気持ちがわいてくるものがあるのならば、それにすぐにでもチャレンジしてみてください。そうしたことの積み重ねのなかでしか、天職を見つけることはできないのです。そうした一歩をまず踏み出してください。本を書きたいなら書いてみてください。歌いたいならレッスンに通ってみてください。学者になりたいなら専門の論文を読んでみてください。また、既に就職している人で、「今の仕事って自分の天職とは思えないなあ」と迷っている人も同様です。良心の声に従ってください。今の仕事が良心に反してしていることなら、やめるのもいいでしょう。また、「これがやりたい」というものが目の前にちらちらしているのなら、仕事をしながらその傍ら、それにチャレンジするのもいいでしょう。そういう一歩を踏み出すのが第一です。

 

 努力を重ねる

 第二は、「日常の努力を積み重ねる」ということです。「これやってみよう」と始めて、少しやってみて「やっぱりだめだ」とすぐにあきらめないでください。なにをするにしても、どんな仕事でも、ほとんどの部分は日常の積み重ねから成り立っています。どんな働きであっても、日常的な努力を積み重ねることができない人は、続けていくことができません。そこで、もし良心の示す「これをやろう」というものに着手したら、こつこつと毎日それを続けてみてください。そういう地味なことを継続することが、後に非常に大きな力になるのです。もし仮に、どうしてもそうした努力ができない、続かない、いくらやっても全然つまらなくて、一向に興味もわいてこない、というならそれは天職ではないとして別のものにしてもいいでしょう。けれども、少しでも「あ、これはおもしろい。楽しい」ということがあるなら、継続してみてください。その積み重ねが、次のステップに向かわせてくれます。そういう努力を継続することができるというのは、その働きの賜物が与えられていることを示す一つのしるしなのです。

 

 情熱、関心、喜び

 第三は、「情熱、関心、喜びをチェックする」ということです。私たちが天職をしている場合には、その仕事に対する興味、喜び、情熱は保たれ、また成長していくものです。そこで、ある特定の働きに着手して、それを継続してみるうちに、自分のうちに「もっとこれを理解したい。次にはこういうことをやってみたい」という熱意や興味がわいてくるか、チェックしてみてください。また、その働きをしているときに、他では得ることができないような喜びがあるかどうか、チェックしてみてください。楽器が好きな人は、お金をもらってももらわなくても楽器をいじっているだけで幸せです。そのように、そのことをしているだけで喜びがとどまっている、幸せな気持ちになる、そういうことがあるかどうか、調べてみてください。もちろん天職であってもつらいことや苦労、その他いろいろなわずらいや面倒なことはどんな仕事でもあります。しかし、そういうことがあっても、「やはりこれはやめられない」という喜びが必ずあるのです。そうした情熱、興味、喜びが与えられ続けているかどうか、それを見てください。もしそういうものがいつもあるならば、それが天職である可能性は高まります。逆に、そうしたものがまったくないのなら、それは天職ではありません。ですので、別のものにチャレンジしてください。

 

 みんなを喜ばせているか

 最後に、「自分の働きによって、周囲の人、またそのことに関わっている人々を喜ばせることができているか」ということをチェックしてみてください。単なる趣味であるのならば、自分さえ楽しければそれでいいのです。しかし、仕事であるのならば、それは人の役に立ち、人を喜ばせるものでなくてはなりません。ただ単に自分の喜びであるだけではなく、それが人々の喜びや幸せになっているか、ということをチェックしてください。もしそうであるのならば、それは天職と言えるでしょう。いつも興味を抱き、また情熱を持って喜びつつ働き、その結果人々もまた喜んでくれて幸せになるなら、それこそ本当の天職です。そこの部分をチェックしてみてください。

 こうしたことをなしていくときに、ぜひ教会に出席して、牧師や信徒の人々と相談したり、自分の経験を分かち合ったりしながら進めてください。そうした交わりのなかで、なおのこと自分の賜物がはっきりとわかるようになりますし、また神の導きに触れて道が整えられていきます。天職は必ず与えられると信じてやってみてください。

 

 

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