光なき時も ~聖書が語る苦しみの日の慰め~

 

 

光を愛する神

 

創世記一章一~四節

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

「光あれ」

 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。

 

 「地は混沌であった」

私たちの現実です。

「闇が深淵の面にある」

どんなに深い闇が私たちを覆っていることでしょうか。

よく見知っている日常世界が崩れ落ちました。

 

しかし、「神の霊が水の面を動いていた」

 地が混沌となり、闇がすべてを覆った時、

すでに神の創造の力が働いていました。

 

 混沌と闇が支配するときに、

人はそのなかに取り残されるように思えます。

 しかし、実はそうではなかった。神がすでに働いておられた。

 

 神は宣言されます。「光あれ」

 神の栄光に満ちた創造の力が輝きます。

混沌と闇が瞬く間に消えていく。

 

 こうして、世界ができました。私たちの生きている世界が。

 「神は光を見て、良しとされた」

光のある世界を神は良しとされました。

神は闇ではなく、光の世界を肯定されたのです。

 

私たちの世界の原初に、神は闇に勝利されました。

 私たちが生きることができる光の世界を、神は愛されたのです。

 

 

 

神は愛

 

創世記二章二七、二八節

 神は御自分にかたどって人を創造された。

 神にかたどって創造された。

 男と女に創造された。

 神は彼らを祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」

 

人間はなぜ尊いか。神に似ているからです。

 どこが似ているのか。愛し合うところです。

 

 男と女が情熱的に愛し合うのは、神の愛の激しさのたとえです。

 愛は創造します。愛は強くし、増やし、豊かにします。

 神と人が愛し合い、人と人が愛し合う時、神の国が実現します。

 愛があるところに、敗北はありません。

 

 愛はすべてに打ち勝つ。愛は無からすべてを創造する。

 神からあふれる愛を受け、互いに愛し合うなら、

 私たちは生きます、永遠に。

 

 

 

共にいよう

 

創世記二章一八節

 主なる神は言われた。

 「人が独りでいるのは良くない」

 

 孤独でいたらいけません。

 孤独でいたら、人は人でいられません。

 

わずらいとか重荷とかしがらみとかがある方がいい。

 悲しんだり傷ついたり悩んだりした方がいいのです。

 

 そういうものが私たちを人間にします。

それも、人間らしい人間に。

 

 神は共にいるお方。「共にいる」それが神。

 だから、私も誰かと共にいよう。共にいれば、神の御心が成る。

 

 

 

神につながる

 

創世記三章五節

「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」

 

 サタンにはこういう口癖があります。

「お前ほどの者ならできる。お前には知恵と力がある」

 

 私が力の源であるかのような錯覚。私に知識の宝庫があるような幻想。

 「お前にはできる。お前の力は偉大だ。お前の知識はすごい」

 

 しかし、力と知恵は神のものです。力と知恵の源は神のみ。

 神とつながっていれば、私は力があります。知恵もあります。

 しかし、私は空っぽの器に過ぎません。

 

 私になにかができるのは、神という無尽蔵の力と知恵の源につながっているから。

 もし神から離れて、「私の力と知恵をもってすれば」と考えたら、

 私はその時、サタンの支配のなかにいます。

 

 

愛のしるし

 

創世記四章一五節

 主はカインに言われた。

 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」

 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた。

 

 カインは弟を殺しました。

 カインは呪われました。

 カインは選ばれた者ではありませんでした。

 

 しかし、神はカインを滅ぼしませんでした。

するべき使命があったのです。

カインにはしるしが付けられました。

 それは神の憐れみのしるしでした。

 

 完全な呪い、そんなものはありません。

 完全な絶望、そんなものはありません。

 

 カインにしるしが付けられました。

 どんなに大きな負のうちにさえ、神の愛は尽きることがないしるし。

 

 

 

 別離と出発

 

創世記一二章一、二節

 主はアブラムに言われた。

 「あなたは生まれ故郷

 父の家を離れて

 わたしが示す地に行きなさい。

 わたしはあなたを大いなる国民にし

 あなたを祝福し、あなたの名を高める

 祝福の源となるように。

 

 「生まれ故郷、父の家を離れよ」

 別離はいつもつらく悲しいものです。

 しかし、神は時にそれを命じられるのです。

 なぜでしょうか。

 

 別離によって、初めて知る恵みの世界があるのです。

 慣れ親しんだものから離されて初めてわかる祝福があるのです。

 別離、それは非嘆の時です。

 しかし、新しい祝福への出発の時です。

 

 主が先立って進んでくださいます。出発しましょう。

 主は言われます。

「わたしはあなたを大いなる国民とし、祝福の源としよう」

 

 

光なき時も

 

イザヤ五〇章一〇節

 お前たちのうちにいるであろうか

 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。

 闇の中を歩くときも、光のないときも

 主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。

 

 明るい時、順調な時、楽しい時、

 神を信頼するのはたやすいことです。

 

 神が味方であるように感じます。

 神がすべてを導いておられます。

 神が守っていてくださいます。

 

 しかし、やがて闇が訪れます。

 光の届かない道を歩まなくてはならない日々が。

 

 その時、ある人は絶望します。

 「神なんていない。神は役に立たない。

 自分は捨てられた。もうだめだ」

 ある人は自暴自棄になります。

 「人生なんてくだらない。

 もうなんのよいことも望めない。

 すべてが嫌になった」

 

 しかし、まさにその時こそ信仰の時です。

 見えないものを信じる時です。

 

 見えない神の愛を。

 見えない神の導きを。

 見えない神の守りを。

 

 今までは、見えているものを信じていました。

 しかし今こそ、見えない神を信じるのです。

 

 たとえ光がなくなり、闇が支配し、

 神の存在を感じなくなり、

 自分は見捨てられていると思う時にも、

 神が愛であり、私たちに誠実であり、

 必ず闇を打ち破って朝をもたらされることを。

 

 すべてが神の愛や恵みと反対に見える時こそ、

 主の御名に信頼し、神を支えとし、

 すべてを貫いて勝利に導く神を信じるのです。

 

 この信仰が、将来を照らし出す光となって、

 私たちを約束の地へと導くでしょう。

 

 

 

嘆きが喜びに

 

イザヤ五四章一節

 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。

 歓声をあげ、喜び歌え

 産みの苦しみをしたことのない女よ。

夫に捨てられた女の子供らは

夫ある女の子供らよりも数多くなると

主は言われる。

 

 子供を産みたくても産めなかった女性は

 どんなに深い嘆きのうちを生きるでしょうか。

 

 夫を愛していたのに捨てられた女性は

 どんなに暗い絶望を味わうでしょうか。

 

 自分の歩みがなにもよいものを生み出していない。

 精一杯頑張っても、だれにも認められない。

 そういう思いと似ています。

 

 しかし、神は言われます。

 「歓声をあげ、喜び歌え」

 どうしてでしょうか。

 

 子供に恵まれなかったら、

 神の子供として生きる幸いをより深く知るのです。

 夫に捨てられてしまったら、

 神を夫として生きる喜びがあふれます。

 

 この世でどんなに報われなくても、

 どんなにみじめな思いでいても、

 どんな嘆きが心を覆っていても、

 神がいますなら、

 嘆きは喜びになり、

 悲しみは歓声となり、

 みじめさは踊りとなるでしょう。

 

 神を信じて神と共に生きること。

 この世に勝るこの祝福を信じましょう。

 

 

 

 神の思い

 

イザヤ五五章八、九節

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

 わたしの道はあなたたちの道と異なると

 主は言われる。

 天が地を高く超えているように

 わたしの道は、あなたたちの道を

 わたしの思いは

 あなたたちの思いを高く越えている。

 

 

 失望、落胆、挫折する時、

 「神はなにを考えているんだ」と言いたくなります。

 

 これが正しいと思ってしたことなのに、

 絶対によいことだと確信していたのに、

 結果はついてこなかった。

 

 ここに行けば幸せになれると思って行ったのに、

 行ってみたら思っていたような場所ではなかった。

 

 善意で、祈って、一生懸命したのに、

 人々から冷たくあしらわれた。

 

 そういう時、神が疎遠に思えます。

 まるで、神が私たちに敵対しているように感じる。

 

 しかし、神の思いは人間の思いと異なります。

 神の道は人間の道とは違います。

 

 なぜ失望したのか。落胆したのか。挫折してしまったのか。

 神がよりよい道を、

 よりふさわしい場所を、

 よりすばらしい働きを備えておられるからです。

 

 自分の思い、人間の思いからすれば、

 この世は失望と落胆、挫折に満ちています。

 

 しかし、神はこれらを貫いて、

 私たちを最高の恵みの世界へと導かれます。

 

 後から振り返ってみると、

 これが最善の道だった、

 神は真実であったことを知るでしょう。

 

 

 

あなたは世の光

 

マタイ五章一四節

 あなたがたは世の光である。

 

 人々を助けたい。

 だれかの役に立ちたい。

 暗い世を照らす光になりたい。

 

 そう思う人はいるでしょう。

 だから、努力を重ねます。

 

 立派な人、強い人、優しい人、偉い人になって、

 できるだけ多くの人を助けたい。

 純粋な願いです。

 

 しかし、それがはかない夢に終わることもあります。

 将来、素晴らしい人になれると思って走ったけど

 だんだん歳を取って、現実の重みにうちひしがれて、

 「結局人生はこんなものだ」

 そう言ってあきらめる人も多いでしょう。

 

 しかし、イエス・キリストは言われます。

 「あなたは世の光である」

 

 「これから世の光になるだろう」

 「努力して世の光になりたい」

 「世の光になれば、すばらしい人生がある」

 そういうことではありません。

 

 あなたは今、すでに世の光である。

 どうしてそう言えるでしょうか。

 

 イエス・キリストの宣言です。

 「あなたがどう考えようと、

 あなたがどう感じようと、

 だれがなんと言おうと、

 あなたがわたしと共にあり、

 わたしに従って来るならば、

 あなたはすでに世の光として生きている。

 わたしの輝きがあなたに映って、

 わたしの光があなたを通して輝くから」

 

 キリストの光によって輝くのです。

 キリストの力で人々を助けるのです。

 キリストが私の内で、働かれるのです。

 

 私は弱い。私は無力だ。私は臆病だ。

 私は性格が暗い。私は頭が悪い。私は力がない。

 

 全然関係ありません。

 輝くのはわたしではなく、キリストだから。

 ただキリストに照らされて、それを喜べばいい。

 

 キリストと共に生きてください。

 あなたは世の光です。

 

 

 

救いの奇跡

 

マタイ八章二、三節

 一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

 

 おそらく、長年にわたる病だったでしょう。

 全身がむしばまれる、深刻な皮膚病です。

 

 救いを求めてさまよったに違いありません。

 優秀な医者、学者、祈祷師、占い師。

 だれか自分を病から救ってくれないか、と。

 

 しかし、どこにも救いがありませんでした。

 年月を重ねるごとに、絶望だけが深くなっていきました。

 

 「もう自分はだれにも救われないのだ」

 ついに、そのような思いになっていたかもしれません。

 自分のようなものには、もうなんの望みもないのだ。

 

 しかし、そこにイエス・キリストが来られるのです。

 キリストが説教するのをこの人は聞きました。

 「自分を救えるのはこの人しかいない」

 そう直感したのです。

 

 皮膚病は恐れられ、忌避された病でした。

 だれも触れず、だれも近づきませんでした。

 この人が通るところではどこでも、

 人が離れていったのです。

 

 しかし、この人はイエス・キリストに近づき、

 ひれ伏して魂から絞り出すように言いました。

 「御心ならば、あなたは私を清めることがおできになります」

 自分自身のすべてを、イエス・キリストに明け渡したのです。

 

 すると、キリストはこの人に触れてくださいました。

 何年も、何十年も忘れていた、人の温もり。

 魂の奥深くまでしみ渡る神の温もり。

 全身を貫く喜びがこみあげてきます。

 

 「よろしい。清くなれ」

 絶望と暗黒と恐れが嘘のように消えていきます。

 心に光と平安が満ちあふれます。

 

 自らを顧みると、皮膚病は消えていました。

 もはやなんの跡形もなく。

 

 神の救いの奇跡。

 闇から光を、絶望から希望を創造する神の御業。

 

 この人は救われました。

 キリストがこの人の絶望に打ち勝ちました。

 

 私たちがキリストに出会うときも、

 同じことを経験します。

 

 私たちも、ついに光を見出すのです。

 

 

 

万事が益となる

 

 ローマの信徒への手紙八章二八節

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

 私たちの生きる歴史は、

 無意味に思える苦痛や混乱に満ちています。

 

 「なんでこんなことになるのか」

 「なぜこんな苦しみを」

 「神はなにを考えておられるのだ」

 

 どんなに悩んでも、

 どんなに苦しんでも答えのない問いかけが、

 私たちの世界を覆っています。

 

 しかし、唯一つ確実なことがあります。

 神を愛する時、万事は益となるということです。

 

 神は、ご自身を愛する者の痛みを、

 決して無駄になさらないのです。

 

 どんなに意味のない苦しみに思えるものでも、

 神はそこから新しく善を創造されます。

 

 途方もない非嘆からも、

 癒されがたい傷からも、

 絶えまない苦悩からも、

神は新しい恵みを造り出し、

私たちの命を祝福してくださいます。

 

 私たちの経験することは、

 なに一つ無意味に終わりません。

 なに一つ無駄にならず、

 すべてが私たちの救いのために益となるのです。

 

 答えは見えないかもしれません。

 解決は遠いかもしれません。

 しかし、悩み、取り組むなかで

 いつしかそれらは神の愛により

恵みへと変えられ、祝福となります。

 

 神を愛する者に、敗北はありません。

 どんな敗北も、勝利に変えられるからです。

 

 どんな暗きにいるときも、

 どんな痛みがあるときも、

 「私たちは必ず勝利する」

 この確信を神にあって抱きましょう。

 

 万事を益となす神が共におられます。

 

 

 

 永遠の愛

 

 ローマの信徒への手紙八章三八、三九節

 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

 「永遠の愛なんてあるだろうか」

 私たちはそのように思います。

 

 人と人を結ぶどんな愛も、

 やがて消え去る定めにあります。

 

 恋人の愛も、夫婦の愛も、友人の愛も、

 親子の愛も、師弟の愛も、

 やがて消えなくてはなりません。

 

 不和によって消えることもあり、

 別離によって消えることもあります。

 人によって奪い取られることもあります。

 

 なにより、私たちはやがて死ぬべき者です。

 死によって隔てられたら、

 どんな愛も存続することはできません。

 

 しかし、「永遠の愛がある」

 そのように告げられています。

 

 主イエス・キリストによって示された神の愛。

 この愛だけが、真実に永遠の愛なのです。

 

 この愛はなにものによっても奪われることがありません。

 自分自身が罪を犯すことによってさえ、

 失われることがないのです。

 死に直面して、なお死を越えてゆく愛です。

 

 ただこの愛を信じることによってだけ、

 私たちは救われるのです。

 

 ただこの愛に根差して歩むことによってだけ、

 私たちの命は確実な足場を得るのです。

 

 およそ私たちにいかなることがあろうとも、

 いかなる苦しみと悩みがあり、

 いかなる喪失と悲哀があろうとも、

 いかなる別離と苦痛があろうとも、

 私たちをこの永遠の愛から引き離すものはいません。

 

 永遠の愛がイエス・キリストによって示されました。

 十字架のキリストに輝くその愛が、

 私たちの救いの唯一の源です。

 

 

 

 逃げ道

 

 コリントの信徒への手紙一 第一〇章一三節

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

 「神を信じたら試練には遭わなくなる」

 そんなことはありません。

 

 神は愛する者に試練をお与えになります。

 愛する者を練り上げ、鍛え上げるために。

 

 しかし、私たちのすべてを御覧になっている方は、

 私たちがどれくらいの負荷に耐えられるか、

 よく知っておられます。

 

 私たちを鍛えることを望んでおられる方は、

 私たちを滅ぼすことを望んではおられません。

 私たちがつぶれてしまうことを神は望まれません。

 

 私たちに試練をお与えになるのは、

 私たちを強めるためであり、

 私たちを否むためではないのです。

 

 だから、神は私たちに与える負荷を

 常に配慮してくださいます。

 私たちが耐えることができるように、

 私たちを訓練し、主の兵士とするにふさわしいように

 私たちが耐えられる試練はお与えになっても、

 耐えられない試練はお与えにならないのです。

 

 神は試練と共に、逃げ道を備えていてくださいます。

 道をふさいで神への信頼を試みても、

 新たに道を開いてくださいます。

 

 苦しみによって心がふさがれても、

 慰めと励ましをもって新たに生きる力を与えてくださるのです。

 

 恐ろしい重圧に圧迫されても、

 それを軽くしてくださる主の導きが備えられます。

 

 神が試練をお与えになるのは

私たちを鍛えるためであるので、

 試練がその目的を果たしたら、

 神は試練を取り除かれます。

 

 神の子は試練を通して

 いよいよ練り上げられ、造り変えられ、

 いよいよ主の栄光を反映する者とされるのです。

 


全編読みたい方はこちら