1 お金の本質

 

2 幻想としてのお金

 

3 お金のもらい方

 

4 誘惑としてのお金

 

5 お金の使い方

 

6 享楽・虚栄としてのお金

 

7 お金の増やし方

 

8 貪欲としてのお金

 

9 正義のお金

 

10 不正としてのお金

 

11 神への信仰とお金

 

あとがき

 

※聖書は『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。


 

 序

 「お金」について本を書くというときは、大別して三つの考え方があると思います。

 ひとつは「成功者」や「お金持ち」になった人が書く「お金」の理解です。こちらは書店でいくらでも売られていますが、特定のパターンがあります。

お金についての考え方を解説して、実践としては自分のなんらかのビジネスを成功させたうえで、これを不動産や株式に投資し、だんだんと「不労所得」だけで生活できるようにもっていく、という考え方です。

もう一つは経済学者や経済の専門家が、専門的な視点からお金や経済について描くもので、政治経済学や経営学の範疇になります。

 第三は、ごく一般的な人が抱くべきお金についての常識や哲学について解説するもので、お金に向き合う姿勢や考え方の原理原則を解き明かすものです。

 

 本書は立場としては第三のものですが、特にお金についての大局的な「考え方」「生き方」「在り方」を見つめ直す際のヒントにして頂くためのものです。

 実践や具体的方法論としての「貯蓄法」や「投資法」、「販売法」、「経営」などには、本書では一切触れていません。お金についての理解の根本となるフレームワーク、原理原則の部分を扱っています。

 お金についての学びと実践を深めていくなかで与えられた理解と、聖書とを照らしながら、お金に関わる原理原則について考えていきます。

 

 聖書には「箴言」と呼ばれるお金や富についての素晴らしい叡智が集成されている文書が含まれており、これは古代から多くの商人、ビジネスマン、経営者たちに愛読されてきたものです。人間として正しくお金と付き合うための「王道」と「邪道」について、明確に教えてくれています。

 お金への姿勢にも「王道」と「邪道」があり、「邪道」の道を歩いているなら、たとえそこで成功したとしても、それは一時的なものに過ぎません。得たお金もやがて手元から消えて行ってしまいます。

 

 お金の「王道」をまっすぐに歩むなら、たとえ最初は非常に貧しくても、ゆっくりと着実にお金が与えられ、祝福されて豊かになる道が開かれていきます。

その「着実さ」こそが「王道」の真髄だからです。「王道」の特徴は「確実さ」「着実さ」です。すぐに結果が出るわけではありませんが、少しずつでもゆっくりと確実に豊かになっていくのが「王道」のすばらしさです。

 

 古代最高の叡智である「箴言」や新約聖書のいくつかの聖句に学び、お金の原理に関わる「王道」について考えながら、お金の本質や原理原則の根本の部分を再認識していきたいと思います。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

 

 

1 お金の本質

 

 忠実な人は多くの祝福を受ける。

 富むことにはやる者は、罰せられずには済まない。(旧約聖書 箴言第28章20節)

 

 気前のよい人は自分も太り

 他を潤す人は自分も潤う。(旧約聖書 箴言11章25節)

 

 口の言葉が結ぶ実によって

 人は良いものに飽き足りる。

 人は手の働きに応じて報いられる。(旧約聖書 箴言12章14節)

 

 富んでいると見せて、無一物の者がいる。

 貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。(旧約聖書 箴言第13章7節)

 

 

 お金とは「価値」の表示

 お金の本質とは、なんでしょうか。

 これは、非常に深い問いであって、そう簡単に答えることができるものではありません。経済学や哲学の世界で、これまで「貨幣とはなにか」という課題について、数々の思想家が理論を展開してきました。

 

 お金とは「価値」を表すものであり、社会における「希少性」や「有用性」の数値的な表示である、という考え方があります。

 特に「商品」ということをめぐって、考えてみましょう。

 

 たとえば、「空気」は「希少性」がなく、全世界に偏在していますから、無料です。ダイヤモンドは、希少なものであるため高価です。

 「水道水」は有用なものですが、希少性が低いため値段は安価です。しかし、ビタミン・ドリンクになると有用性と希少性が増すため、より高価になります。

 しかし、たとえば「砂漠を旅している」という状況では、少しばかりのビタミン・ドリンクよりもたくさんの水のほうが有用性と希少性が増すため、高価になります。

 

 世界中に存在している資源や商品、サービスをある社会の範疇での「希少性」と「有用性」という基準で照らすと、おおよそその「価値」が定められます。それが市場での売買を通じて調整され、適正な「値段」となっていきます。

 この考え方だと、「お金」とは「社会における有用性と希少性から導かれる価値」の表示ということになります。

 

 また、お金は「労働」から生まれる「価値」であるとする考え方もあります。

 希少性や有用性といったことよりも、どの程度の教育を受けた労働者が、どの程度の労働を投下することによって得られるものなのか。それが商品やサービスの「価値」を決めており、労働時間や労働の質と量によって商品の値段が決まる、ということです。

 あるものの「価値」は、「社会」が決めるのか、「労働」が決めるのか、といった焦点の当て方の違いです。

 

 さらに、これに「情報」という点を考慮すると、どうなるでしょうか。

 ある商品に込められている情報の「質と量」によっても、「価値」は大きく違ってきます。アップル・コンピューターの商品がよく売れて、名もなき会社の商品が売れにくいのは、性能の違いもさることながら、その商品に込められている「情報」の違いがあります。

 アップルの商品はスティーブ・ジョブズがそれを構想する過程で、いろいろな「伝説」や「物語」を生み出しています。

 ジョブズが「マックに入れるフォントの美しさについて激論した」「デザインに死ぬほどこだわった」「技術者に無理難題を要求して、クリアさせた」そのようなワクワクする「情報」が商品の背後にあると多くの人々が感じると、商品の「価値」は大きくなります。商品に付加されている情報が、商品に価値をもたらすからです。

 こういった意味での「情報」ばかりでなく、その商品を生み出すために必要な「情報」の面もあります。つまり、非常に高度な教育を受け、多くの知識と情報を理解していないと生み出すことができない商品は、より高い「情報性」を持っています。そういったものの価値は、それだけ大きくならざるをえません。

 

 なお、考えることができる価値についてのポイントがあります。

 ある商品を生み出す労働の従事することが、非常にきついものであり、また一般の仕事にはないような危険や責任を伴うものであることもあります。こうした「危険」な仕事、責任の「重圧」を伴う仕事はだれもが避けたいところのものでしょう。こういった「危険性」の度合いが高いものは、より「価値」が出てくるといえます。その仕事のリスクが大きいほど、必然的に希少性が生じて、価値が高まるからです。医師は患者の命を預かっているため、そのリスクと責任は非常に大きくなります。また、非常に危険な場所で作業に従事する人も、背負っている危険性が価値を生んでいると言えます。

 

 「希少性」「有用性「労働性」「情報性」「危険性」五つのパースペクティブが出てきましたが、これはどれか一つが正しいということではなく、それぞれのバランス・チャートがどのようなものであるのかによって、ある商品の「価値」「値段」が定められる、ということでしょう。

 市場の商品における「お金」とはこういった観点から導かれる商品やサービスの「価値」を数値的に表示しているものと言えます。

 

 「価値」とは「関係性」

 それでは、「価値」とはなんなのでしょうか。

 「有用性」「希少性」「労働性」「情報性」「危険性」これらすべてを包括している概念は、「関係性」ということです。

 「価値」とは、ある社会における、あるものの「関係性」を示しているものです。

 ある商品やサービスが、社会的にどの位置を占めているのか、どのような役割を担っているのか、人々の評価においてどのような関係にあるのか、といったことを複合的に表現しているものなのです。

 

 「関係性」において重要な概念は、「同一性」と「差異性」です。

 あるものとあるものの関係を表現するとき、その最も重要な論理は「ABである」という同一性と、「CDではない」という差異性の論理です。

 あるものの「価値」は、特定の市場や人々、他の商品等との関係において、他のものと「どう同じで、どう違うのか」という関係性によって、示されているのです。

 価値が出てくるのも、下がるのも、同一性と差異性の関係が社会的にどうであるかによって変わってきます。

 「どこで、どのように同一性と差異性を確保し、変更するのか」ということが、商品やサービスの「価値」を決めているのです。

 

 あるガムは、他と似たような味ですが、値段が安いです。「味」に「同一性」を、「値段」に差異を作ります。

 ある車は斬新なデザインに非常にこだわり、そこに「差異」を求めます。

 あるパソコンはこれまでにない機能を盛り込んで「差異」を作ります。

 ある商品は流通経路を大きく変えることによって、「差異」を出します。

 これらは非常に単純化した例ですが、あるものが社会的関係において、他のものとどのような「差異性」があるのか、ということが、「価値」を発生させるもとになっているのです。

 

 差異を生むもの

 それでは、差異を生み出すものとは、なんなのでしょうか。

 これは同語反復になりますが、「差異を生むのは差異である」ということになります。

 「希少性」「有用性」「労働性」「情報性」「危険性」の五つの要素がありましたが、これらの間になんらかの「差異」を作ることで、価値を生み出すことができるのです。

 

 「差異」といっても、いろいろなものがあります。

 「地域的差異」「時期的差異」「技術的差異」「人材的差異」「デザイン的差異」・・・(差異には多くの種類があります)。

 こういったなんらかの「差異性」と、先の五つのファクターの「組み合わせ」によって、価値が生まれます。

 

 「希少性」であれば、「これまでにない希少なものを発見する」ことも価値になりますが、「別の地域では希少でないものを、それが希少である他の地域に持っていく」ことも価値になります。また、「いつもは希少でないが、それが特に希少になる時期を知る」ことも価値になります。

 「労働性」であれば、「大量の労働力を投入する」ことも価値になりますし、「最高の教育を受けた人材に労働してもらう」ことも価値になります。

 「情報性」であれば、「同じ商品を、これまでにないパッケージで売る」ことも価値になりますし、「だれも知らない情報を入手する」ことも価値になります。

 

 そこに「差異性」がなんらかの形で組み合わされ、それが社会にとって好ましいものであるとき、価値を生むことにつながるのです。

 差異は、「新しい組み合わせ」によって生まれます。これが、一般的に「アイデア」と言われるものです。

 つまり、ある要素とある要素の「新しい組み合わせ」が差異をもたらし、価値を生み出す源泉になるのです。

 あらゆるアイデアとは、差異を生むための「新しい組み合わせ」を限りなく繰り返す試みであって、これが社会にどう評価されるかによって、その「価値」が定まってくるのです。そして、その価値に応じて、お金という形に数値化されます。

 

 これが「イノベーション」と言われるものの内容です。差異をもたらすアイデアの「結合関係」がどのようなものであり、結果としてどのようなメリットを社会にもたらすものであるのか、これが価値とお金を生む大元なのです。

 

 「社会」あってのお金

 このことを考えると、「お金」というものは「社会」の存在なくしては、まったく意味をなさないものであることがわかります。商品の値段が社会的価値の同一性・差異性における表示である以上、社会のルールやシステム、人々の存在を前提として成立しているものであって、社会なくしては存在しえないものです。また、社会構造や発展の度合い、社会的状況によって、完全に規定されているものです。国際関係まで視野に入れると、他国の社会との関係性や政治的状況も非常に大きなファクターです。

 

 たとえば、外界と切り離された無人島では、お金は意味がありません。何億円あっても、まったく意味がありません。お札を食べることはできません。魚一匹の方がまだ意味があります。

お金を交換する「他者」がおらず、社会がそこにないからです。ある社会で、ある他者とまったくコミュニケーションが成り立たないという場合も、お金は意味がなくなってしまうでしょう。

 お金は社会をめぐっている血液のようなものであって、あくまで社会の活動を円滑化するためのものです。社会の存在が大前提としてあり、そのうえに「関係性」としてのお金が動いているのです。

 

 つまり、ある意味ではお金は「関係性」の束であって、「実体」はない、ということです。

 お金は社会的価値の「関係性」を数値的に表現しているものであって、そこになんらかの実体があるわけではありません。お札やコインなどのお金の「実物」が存在するために、なんらかの「実体」があるように、私たちは錯覚します。札束を見れば、そこに生き生きとしたお金の「実体」をリアルに感じるのです。また数字で示されているため、その額が大きいなら、それがどのようなものか、すぐにわかるように思います。

 しかし、そのお札やコイン、通帳の数字はいわば社会的価値の関係性を表現する「しるし」に過ぎないもので、存在の安定を保証するものではありません。

 その札束や数字には「実体」がないため、「社会的価値関係」が大きく変化すれば、一瞬にして目の前から消えることもありうる、という性格を持っているのです。

 

 家計であれば、いくら預金があっても子供が難病にかかったり、ふとしたきっかけで退職したりすれば、家計もすぐに苦しくなってきます。

 会社であれば、他社からまったく新しい商品が出てきて自社の価値がまったく下がってしまうこともあります。なんらかの社会的不祥事により、あっという間に信用を失って倒産することもよくあります。

 お金は現在、その保有者の社会的価値関係がどのようになっているのかを表示しているものに過ぎず、その社会的関係性を維持・発展させることができければ、すぐにも消えていくような性格のものなのです。

 

 社会による価値評価

 ある商品やサービスの価値は、社会によって定められます。社会の成員がその価値を評価することになるのです。

 社会によって高く評価されたものは、より多くの「お金」となって返ってきます。社会が評価しないものは、売れないということによって消えていきます。

 それでは、社会はどのような基準によって商品を評価するのでしょうか。

 基本的に、それは「その商品がどのくらいの価格で、自分の抱えている課題をどの程度解決してくれるのか」ということにかかっています。

 私たちがなにかを買うのは、自分の抱えている課題を解決したいからです。「ニーズ」と言われるものですが、自分のニーズの解決の度合いとその価格が、評価の基準となります。

 その商品がどのくらいニーズに応えてくれるものか、消費者はそれを使っていない場合には、なかなかわかりません。それをわかるようにするのが、宣伝やマーケッティングということになります。

 

 こうして人々のニーズを満たすことができたある会社の商品は、それに対する「感謝」「応援」「信用」「期待」の気持ちとして、「お金」が返ってくるのです。

 お金は価値を表すものですが、それは具体的には「社会の人々にどのくらい感謝され、応援されているのか」を数値的に表現しているものなのです。

 

 未表示の社会的価値

 お金は以上のような「商品」や「仕事」と関わってくる部分が大きいですが、消費も含めて全生活に及んでいる以上、他のあらゆる領域と関わってきます。

 そして、仕事以外のすべての分野まで社会的価値関係を広げて考えると、お金についての見え方も変わってきます。

 

 大金を稼ぎ続けて不健康になった人と、収入は少ないが健康であるという人、どちらの歩みに価値があるといえるでしょうか。

 お金持ちであっても家族と紛争している人と、お金がなくても家族と幸せに暮らす人、どちらに価値があるでしょうか。

 

 「健康」には、計り知れない価値があるでしょう。家族との幸せな生活もまた、お金には換算不可能なもので、限りない価値があります。どう考えるかは各人の価値観によりますが、「仮にお金に換算したとすれば、とてつもない価値があるもの」は日常には数多く転がっています。

 健康を壊せば、治療するのに多額のお金がかかります。家族と紛争になっても、その損失は言い表せないほどに大きなものです。

 

 「一般的には、お金に換算しないもの」でも、「なにかまずいことがあれば、非常にお金がかかるもの」もまた存在し、それもまた社会的価値関係のネットワークに入っています。

 そういった関係性まで含めて、総合的に考慮することがなければ、各人がどれくらいのお金を持っており、どのくらいの社会的価値を保有しているかは、わかりません。お金が実体のない社会的価値関係の表示であるなら、「お金としては未表示になっている社会的価値」もまた、各人の生活において広く存在するのです。

 つまり、「お金を持っていること」で、「価値を保有している」要素がすべて尽きているわけではないということです。未表示の社会的価値を示す他のファクターも考慮する必要があります。冒頭の聖書の言葉にあるように、お金を持っていない人が、だからといって価値を保有していないとは限りません。そういう人々が、お金に表示されない豊かな価値を持っていることもおおいにありうるのです。逆に、大変なお金持ちのはずが、その価値の実態においてはまったくの無一物ということもありえるのです。

 

 各人に各人のものを

 お金はなんらかのお金以外のサービス、商品と「交換する」ためにあります。お金は一見すると、「生活するため」にあると考えられます。もちろん、これはお金が必要な第一義の理由です。

 しかし、より全体的な視点に立てばお金は社会の財やサービスを各人に適切に分配するためにあると言えます。

 

 限りある資源を社会で分配しようとするときに、どのような基準でそれをするか、ということは人類社会の根本問題です。

 「富をまったく平等に共有する」という習慣は、原始社会や文明化されていない社会には見られるものですが、「平等な分配」であるなら社会の進展は望めません。貧困も存在しない分、より大きな価値を生み出すことができる人が、働く意欲を失うために、社会が前進しなくなります。

 

 現代社会は貧困の問題に対しては累進課税制度などに基づく政府や民間機関による生活保障によって取り組み、基本的には各人が生み出す社会的価値に基づいて分配を行うという制度を取っています。

 大きな価値を生み出す人のところに、より多くのお金が集まってきます。それは、そのお金を使って生活を改善し、より大きな価値を生み出すようにとの、社会からその人への感謝と応援、信用のしるしです。

 生み出す価値の程度に基づいて、各人が享受する社会の財とサービスの量が調整されるのが、現行の自由市場経済のシステムです。収入は基本的に、その人の生み出す社会的価値の程度に基づいているのです。

 

 平たく言えば、社会に対して貢献する価値の度合いから各人の収入が決まり、享受できるサービスの量や質が決まるということです。

 このことを考えると、現行の社会システムの根底にあるのは、各人がなんらかの差異をもたらすことで社会において価値を生み出す行為であり、これを奨励して社会を前進させるために、お金が社会を循環して調整をはかっていると言っていいでしょう。

 

 お金の本質

 以上のことをふまえると、お金の本質とはなんらかの有意義な差異をもたらすことで社会に価値を生み出す行為を奨励するためのものである、と言ってよさそうです。

 各人がそれぞれの仕方で、社会的価値を生み出す働きを担い、その果実を各人がふさわしく享受する、という根本原理を各人に各人のものを分配しながら運営して社会が前進するために、お金という実体のない、価値関係的な数値表示が導入されている、と考えるのが自然です。

 つまり、実体があるのはあくまで社会を生きる各人の「価値を生む行為」や「社会的資源そのもの」であり、お金はそれを数値的に表示して交換可能にする仮想的な情報媒体といえます。

 本質は各人が価値を生み出し、社会が前進し、富がふさわしく分配されることそのものにあるのであって、お金はそれを可能にする媒体にすぎません。

 

 冒頭の聖書の言葉にあるように、「他を潤す人は自分も潤う」「人は手の働きに応じて報いられる」というのが、お金の本質であり原則なのです。「価値を生んで社会に貢献する」ことが、お金の本質的な事柄なのです。

 お金の本質を以上のようにとらえると、私たちはお金について大きな幻想を持っていることに気づきます。

次にそれを見てみましょう。

 

 

 

2 幻想としてのお金

 

 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに使えることはできない。(新約聖書 マタイによる福音書第6章24節)

 

 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(新約聖書 テモテへの手紙二 第6章9、10節)

 

 

 お金が手に入れば・・・

 私たちはだれでも、「お金がもっと手に入れば・・・」と考えています。つまり、「お金への欲望」を持っている、ということです。

 食べ物や衣服、車や家など、なんらかの実体のあるものを欲しがるのは不思議ではありません。人間として生きるうえでは、欠くことができない多くのものがあります。そうした生きるうえで必要なものへの欲望は人間として自然なことです。

 

 しかし、お金への欲望には、奇妙な「不自然さ」が付きまといます。

 「お金が欲しい」というとき、「それでは、お金によってなにが買いたいのか」を考えてみると、「別に買いたいものはない」ということがあります。

 「それでは、なぜほしいのか」と更に突き詰めると、「お金が欲しいのは買いたいものがあるというよりも、あると安心だから」「好きなことができる自由が欲しいから」といった、精神的な理由がそこにあらわれてきます。実体のある社会的資源が欲しいというよりも、お金そのものを持っていることによる安心感、安定感、自由な気持ちが欲しい、ということです。

 まとまったお金があれば、病気になったときも、子供の教育費が必要なときも、なんらかの緊急な出費が必要なときにも対応できる。「確保しているお金の量」が「将来への安心」を保証するものとなるという精神的価値が出てきます。

 お金がもたらすこのような安心感は、数値的に表現されていて非常にわかりやすいものであるため、大きな力と魅力を持っています。

 「お金さえあれば、もっと安心して暮らせる」という思いは強力なものです。

 

 また、お金そのものへの欲望をもたらすものとして、「社会的地位のシンボル」ということがあります。

 お金は実体のある社会的資源を交換するということと同時に、「お金を保有している」こと自体が社会的な自分の位置を示すシンボルという機能を持っています。

 「年収~万円」「預金が~ある」ということが、社会層において自分がどこにいるのかを示すシンボルの役割を果たすのです。お金を多く得て保有しているということは、社会的に評価され、尊敬され、成功しているというイメージが広くあります。

 保有しているお金の量が、「自分が社会からどのくらい認められているのか」を示すと考えて、このような社会的評価・承認・尊敬を得たいがために、お金が欲しくなります。お金そのものが欲しいというよりも、評価や承認が得られるがために、お金が欲しくなるのです。

 

 つまり、「お金への欲望」は実体のあるなんらかの資源が欲しいということばかりでなく、将来への安心感や社会的評価への欲望という精神的な部分が多分に混ざっており、非常に複雑な欲望とイメージの連合をなしています。物質的なもののみならず、精神的なものもまた、「お金への欲望」のなかに多層的・多重的に入り込んでいるのです。

 このことが、お金について次々に幻想を生み出していくもとになります。

 

 お金に関わる幻想

 「お金がもっとあれば、きっと人に認められ、多くの人に愛してもらえる」

 「お金があれば、もっと人に影響を与えられる」

 「お金があれば、さらに大きな幸福や安心感を持つことができる」

 「お金があれば、自由に好きなことができる」

 このような思いを、多かれ少なかれ、私たちは無意識のうちに抱いています。

 そこで、「お金そのもの」を欲するようになります。お金が欲しくなればなるほど、自分の歩みの「目的」がお金になってきます。「お金が手に入れば、他のものもまた手に入るだろう」と考えるからです。「お金」のなかに、他の様々な「人としての幸福」の多くのイメージが組み合わされるのです。

 

 すると、「お金」についての自分のなかのイメージがどこまでも複雑化して肥大化していきます。お金が手に入ることによる人生に対するメリットのイメージが膨らみます。

 お金が「人生の目的」にまで、高められてしまうのです。

 さまざまなイメージが連合されることでお金の実態からはかけ離れた、誇大で全能感に満ちたイメージが構成されるようになります。

 

 聖書では、このようなお金を「マモン(富の偶像)」と呼びます。

マモンとはお金が人間によって神格化・偶像化され、各人の人生の目的になるまで誇大化・肥大化したものを言います。お金がそれに向かって生きるべき「神」となってしまい、人間の歩みをお金に対する優先順位が支配してしまうのです。

 「マモン」は、人間が生んだ肥大化したイメージによって塗り固められており、お金の実態とはかけ離れたものになっています。このようなお金に関わる幻想に振り回されているうちに、人生全体を棒に振ってしまう人々も出てきます。

 

 マモンの生むもの

 お金が肥大化して人生の目的となり、偶像化されるとき、なにが起こるでしょうか。

 本来、実体がないはずのお金を追い続けることで、生き方を大きく間違えることになります。

 前章で描いたように、実体があるのは私たちそれぞれが、価値を生み出すことであり、それによって社会の前進と発展に貢献し、結果として富の分配にあずかることです。私たちが「どのような価値を社会において生むことができるか」ということが、お金の根底にある本質的なことなのです。

 

 しかし、お金が各種のイメージと連合することで偶像化し、お金そのものが人生の目的となるとき、「価値を生むこと」ではなく「お金をもらうこと」に生きるうえでの焦点が移行していきます。これが、人生を破滅へ導く諸悪の根源ともなりうる、大きな課題になるのです。

 ここに、ある人が就こうとしている、二つの仕事があるとしましょう。

 仕事1で得ることができる収入は、それほど多くはありません。どうにか生活できる程度のものです。しかし、仕事1はこの人が元来やりたかったことであり、ここから生まれる社会的な価値に対して、喜びを抱くことができるものです。

 仕事2については、非常に多くの収入を得ることができます。ところが、こちらは嘘をうまくつき、顧客をある程度以上には欺かないと、高収入とはならないものです。仕事を通して生まれる社会的価値についても、喜びや確信を持つことができません。

 仕事1と2を前にしたとき、どちらを選ぶかは、その人が「なにを人生の目的としているか」によるでしょう。生きるうえでの課題の焦点をどう当てているのか、ということです。

 「価値を生む」ことに生きる焦点を合わせている人は、1を選びます。「稼ぐこと」に焦点を合わせている人は、2を選ぶでしょう。

 

 仕事2を選んだ場合、どうなるでしょうか。

 仕事2をすることそのものからは、喜びや充実を得ることができません。そこから生まれる価値に対して、確信が持てないからです。そこでの仕事はストレスと負担を背負い続けるものになります。得られる喜びは、収入が大きいというところに集中します。

 仕事から受けるストレスや圧迫感を、なんとか解消しないと続けていくことができません。そこで、お金がかかる遊びや気晴らしを次々にすることになります。仕事で受ける圧力を跳ね返すだけの「娯楽」がどうしても必要になります。

仲間と深夜まで飲み歩いたり、会員制の高級クラブに出入りしたり、やたらスイートルームに泊まったり、ということもあるかもしれません。高額な娯楽に出費し続けないと、仕事を続けることが難しくなります。

 仕事が生み出す価値に対して確信と喜びが持てず、蓄積するストレスを娯楽消費によって解消し続けるという人生は、決定的な部分が不自然だと言わざるをえません。自分が好きなこと、やりたいこともやらず、自分の生み出す価値に喜びも持てず、社会に貢献しているという思いを抱くこともできないなら、そこに価値の実体はないからです。

 こうした歩みを続けていくとき、自分の人生が一体何であるのか、疑問がわいてくるのは自然なことです。「価値を生む」という実体とは離れた、マモンの幻想のなかで営まれている人生になってしまうからです。

 

 最終的に保有できるお金を考えてみると、たとえ多く稼いでも、支出がどんどん大きくなるため、手元に残るものはそれほど大きなものではなくなるでしょう。

 歳を取ってくると、最も大切なものを失ったことに気づくかもしれません。それは与えられた「命の時間」です。

 ただ一度限り人生、限られた命の時間を、本当に価値あるものを生むために使わなかった、という後悔が残ってしまいます。この人生を失った後悔が心をむしばむ最も大きな痛みになるに違いありません。

 

 幻想から醒めるために

 仕事やお金の根底に流れている本来の実体と実質を失って、「お金を稼ぐ」ことと「お金を使うこと」に人生を使ってしまっているということです。その原因は、自分の働きを通して「価値を生むこと」ではなく、「お金を稼ぐこと」に人生の焦点を合わせてしまったことによるのです。

 

 もちろん、どうしてもお金が足りなくなったとき、「副業」として「稼ぐこと」のみを目的とする仕事をするのは、ありうると思います。「副業」として短時間だけするなら、それほど問題もないでしょう。家庭を守る責任がある父や母であるなら、家族のために稼ぐための副業をしなくてはならない時があると思います。

 

 しかし、「本業」として「稼ぐこと」にフォーカスした仕事をして生きるのは、かけがえのない一度しかない人生である以上、やがて後悔だけが大きくなっていくでしょう。実体のないものを追い求めているうちに、命の時間が尽きてしまうからです。

 「お金を稼ぐこと」や「お金を消費すること」が本質なのではなく、「価値を生むこと」がそもそもの根本であり、ここから乖離するほど人生の不安定感は増すのです。マモンの幻想のなかに落ち込むからです。

 

 仕事そのものから充実や満足を与えられ、自分の生み出す価値に喜びと確信があるときには、実はお金はそれほど多く必要ではありません。自分や家族の生活が支えられてさえいるなら、価値を生む仕事によって生きることを喜び、満足することができるからです。

 マモンの幻想から醒めるためには、原点に立ち返る必要があります。

 

 「価値を生む」ことが根本であること。

 「お金」はそのための手段であること。

 「生んだ価値」にふさわしく分配されたお金にこそ、本当に意味があるということ。

 「価値を生む」ことから乖離して得られたお金は、実体がないためなんらかの事情により雲散霧消するということ。

 これらのことを胸に刻みなおす必要があります。

 

 お金の幻想に支配された人生から、価値を生むことを求める人生に転換することが、なによりも大切なことです。

 

 

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