宣教の愚かさ

~教会が教会となるために~

 

 

 

目次

 

第1章 説教と教会の危機

 

第2章 福音の本質

 

第3章 福音の実り

 

第4章 福音の源泉

 

第5章 福音の聴取と告知

 

第6章 福音と成功

 

第7章 福音と健康

 

第8章 福音とイデオロギー

 

第9章 福音と道徳

 

第10章 福音と情報

 

第11章 福音によって生きる教会

 

※本書は「舟の右側」(地引網出版)に2016年1月~11月まで連載した「一筋にキリストの福音を語る」をまとめたものです。

 

※聖書は『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。

 

 

 

 

 

第1章 説教と教会の危機

 

礼拝の中心である説教

 教会の「ハイブリッド化現象」について、『礼拝の力』『必要なことはただ一つ』で描いてきました。教会が企業、病院、政府、福祉、学校といった分野とブレンドされてしまい、「教会にしかできないこと」「教会独自の使命」がわかりにくくなっている現代の状況があります。ここに「教会の衰退」の根があるのではないかと考えて、教会の原点に立ち戻るために、他分野と教会との境界線をはっきりと区別しました。そして教会独自の役割とは「礼拝」であることを確認しました。教会はこの礼拝によって立ちもし、倒れもするのであって、他分野の補助や助力、協力によって教会の存立が決まるのではない、ということを描きました。牧師、信徒の一人ひとりが礼拝のために与えられている自分の資源を投入することによって、礼拝のなかに聖霊による霊的魅力が生じ、これが教会の存立の基盤となるのです。

 それでは、「礼拝の魅力」といった場合、それは具体的にはどこで決まってくるのでしょうか。礼拝の力の源泉はどこにあるのでしょうか。どんな礼拝が力と魅力のある礼拝だと言えるのでしょうか。

 「讃美歌の力強さ」でしょうか。確かに、礼拝堂の外にも響き渡るような声で讃美歌が歌われるなら、それは魅力だと言えるでしょう。「礼拝堂の壮麗さ」でしょうか。それも一理あるかもしれません。「信徒の祈りの素晴らしさ」でしょうか。そういうこともあるでしょう。考えてみれば、礼拝の魅力ということは一口には語りつくせないものがあります。多方面から論じることができるもので、一義的には規定しにくい多様なものです。

 しかし、そもそもこれらすべてを成り立たせている、その「根源」があるとするなら、それは「説教」だと言えるのではないでしょうか。こうしたすべての教会の魅力を生み出す源であり根底であるもの、それは神の言葉である説教です。

 ひとつのたとえですが、ラーメン屋の魅力はなんであるかと考えてみましょう。建物でしょうか。店主の人柄でしょうか。お客の雰囲気でしょうか。かかっている音楽でしょうか。これらすべてについて、「最高」の点をつけることができたとしましょう。それでも、もしそのお店のラーメンそのものがおいしくなかったら、私たちはその店に行くでしょうか。ラーメン屋に私たちが行く根本の意味は、おいしいラーメンを食べることです。それ以外の条件が満たされていても、ラーメンそのものがまずいなら、行く意味はありません。

 プロテスタント教会にとってのラーメンに当たるもの、それは「説教」です。説教は礼拝の中心であり、教会に必要な「すべて」がそこから湧き出てくる泉のようなものです。

 力強い讃美も、教会員の善き奉仕も、受洗者も、健全な財政も、すべてはただ「説教」から生まれてくるといって過言ではありません。説教そのものが神の恵みの福音でないならば、私たちは教会へ行く意味はないのです。私たちは福音を受け取るために教会へ行くのであって、それは主として説教を通してなされるのです。説教によって福音を受けることができないなら、他の部分がどんなに楽しくても、やがて教会に行く動機は失われてしまいます。説教に聖霊による魅力があるからこそ、教会は教会として存立していくことができるのです。

 

説教の危機

 しかし、現代の状況に目を転じるとき、教会でなされている説教が危機的な状態にあることを思わずにはいられません。

 「教会のハイブリッド化現象」は、当然教会の働きの面だけにとどまりません。その根本は、「説教のハイブリッド化」に他ならないのです。説教が「他分野」の思想と混交・融合してしまい、講壇から語られる福音が「福音と他分野の思想の混ざりもの」になってしまっている状況があるのではないでしょうか。

 そもそも、説教者が告げている「神」が、三位一体の神ではなくなってしまっているのではないか、と思われることがたびたびあるのです。それは、その説教が会衆をどのような「方向」に導こうとしているのか、というところにあらわれてきます。

 たとえば、ある説教者は「いかにして自分をコントロールし、成功するのか」を語ります。この説教の目的は、会衆の「成功」なのです。別の説教者は「神に癒されるために必要な3つの条件」について語ります。この説教の目的は「癒し」です。また別の説教では、「共感することの力」が語られます。人に共感してあげることへと導こうとしているのです。「日本社会を改善するための道」について語る人もいます。会衆を「よりよい社会」へと導くために、社会的な市民運動へと会衆を招く説教者もいます。

 これらすべての「目的」が、そのものとして「悪」だなどということを言いたいのではありません。こうしたすべての課題は、そのものとしては大切な課題であって、キリスト者自身も市民として、社会人として、職業人として担っていかなくてはならないことです。説教の素材の一つとしてであるなら、取り上げられることがあっていいと思います。

 しかしこれらは、説教の「中心」また「目的」としてふさわしいでしょうか。説教はこうした様々な課題へのなんらかの「解決」を語るものなのでしょうか。もし説教の主題がこうした事柄になっており、その説教の語っている救いがこうした領域に関わるものなら、その説教が伝えている「神」そのものが、「成功」や「健康」、「道徳」、また「理想社会」になってしまっているとは言えないでしょうか。三位一体の神が説教の中心なのではなく、「他分野」によって説教がハイジャックされてしまっているのではないでしょうか。

 このように、説教で伝えている教えが福音と「他分野」の融合したものとなり、語られている内容が聖書に即したものではなくなり、福音が変質してしまうことが現代の説教の危機なのです。説教という課題においても、他分野の思想との「ハイブリッド化」が起こってしまっているのです。

 

「福音の純粋な説教」

 宗教改革者たちは、カトリック教会から離脱したとき、「教会とは何か」という問いに答えなくてはなりませんでした。カトリック教会からの批判に答えるために、プロテスタント教会もまた、「まことの教会」であるということを証しする必要があったのです。そこで宗教改革者たちがたどりついたのは、真の教会には二つのしるしがある、ということでした。それが、「福音の純粋な説教」と、「聖礼典の正しい執行」がなされているということです。礼拝においてこの二つがないなら、そこは教会ではない。逆にどのような罪や弱点があったとしても、この二つがなされているなら、そこはまことの教会である、としたのです。

 「聖礼典の正しい執行」については、既に様々なことが議論されており、ここでは取り上げません。「福音の純粋な説教」の方に焦点を当ててみましょう。

 「福音の説教」ならわかりやすいですが、そこに「純粋な」という言葉が入っています。この「純粋な」という言葉の意味が大切になります。「福音と異質な思想との混ざりものではない」ということです。「聖書のみから汲み上げられた説教」ということです。

 教会は教えの面で、日々脅威にさらされています。この世からの「同調圧力」が常にかかっているのです。この世のさまざまな思想、イデオロギー、価値観といったものが、テレビや新聞、書籍などのメディア、インターネット、人々の口から次々に流れてきます。これらの情報は、あるものは福音に多少なりとも適合していますが、他のものはまったくの別物です。私たちはそのような情報の集中砲火を毎日浴びているのです。そのなかの多くの情報が、福音の教理とはまったく相容れないものなのです。

 私たちは、あまりそのことに自覚的ではありません。だから、コンピュータのなかにいつの間にかウイルスが入り込むように、私たちも無意識のうちにこうした福音に反している情報を受け入れてしまっているのです。非常に微妙な形で、また本人も気づかない微細な心の働きの領域で、福音の「純粋さ」はこの世の情報によって汚されていきます。

 特に教会にとって致命的なのは、牧師が福音の教理に完全に反している教えを受け入れて、それを福音の教理と心のなかで混ぜ合わせてしまうときです。これにより、「説教のハイブリッド化」が起こるのです。自分が知ったものが、福音とはまったくの別物であることをわきまえているなら、特に危険はありません。教会の説教においては福音のみしか語らない、ということであるなら、どんな思想を学ぼうと、まったく問題ありません。しかし、福音と他分野の思想を混ぜ合わせてしまい、それを講壇から語り始めるとき、教会は教会でなくなる危機のなかに置かれるのです。

 あるときは、マルクス主義と福音が混交し、「マルクス主義的福音」が語られます。あるときは、日本的思想と福音が混ざって「日本的福音」が語られます。別のときは、成功哲学と福音が混ざって「成功のための福音」が語られます。

宗教改革者が語ったまことの教会のしるしである「福音の純粋な説教」が、他分野の思想との融合によって破壊されてしまうのです。こうして、説教のハイブリッド化によって説教が変質し、教会が教会ではなくなってしまうこと。これが現代の教会の危機の本質なのではないでしょうか。

 

教会の衰退と説教

 現代は多くの教派で教会が衰退していく、試練の時代です。特に日本では、教会は縮小を続けており、厳しさが日々増しています。この原因の分析が数々なされています。日本人の神道的な多神教のメンタリティがキリスト教と合わない。徳川幕府によるキリシタン弾圧が今でも影響している。教会が自己満足的な個人主義に毒され、外に向けての伝道をしなくなってしまっている。どの分析も当たっているところがあると思います。「日本伝道」の困難さの要因は一枚岩ではなく、数々の複合的な要因があるのは明らかでしょう。

 しかし、こうしたさまざまな原因がありつつも、日本伝道はこれまでなされてきましたし、それなりに多くの人々が救われてきたのも事実です。そもそも、聖書においてはキリストの者となるように「選ばれる人は少ない」と言われていますので、社会全体の割合からするなら、キリスト者はいつの時代でも少数であるというのが実情でしょう。少数であっても、「地の塩」として教会は社会のただ中に立ち続け、福音を発信することによって社会的な影響を及ぼし続けてきたと言えます。日本社会から完全に教会の影響を取り除いてしまうなら、それは社会にとっても大いなるマイナスとなるのは明らかでしょう。そういう意味で、キリスト者の割合が「少数」であることそのものについては、私自身は問題ではないと考えています。日本で伝道していくには、社会のなかで多数派を獲得することを求めるというよりも、少数であっても真心からキリストを信じる者が一人、また一人と生まれていくことの方が重要だと思います。

 私たちが不安に思うのは、社会のなかでは少数であるキリスト者の群れそのものが、「少数から消滅へ」の危機のなかにあるのではないか、ということです。このことの意味を、じっくり考えてみる必要があります。

 聖書は、教会は成長する、と告げています。主イエスのからし種のたとえからも、パウロのエフェソ書の神殿のたとえからも、教会はキリストの生命によって成長することが約束されているのです。牧師や信徒が「成長させる」のではありません。人が人を成長させることはできないように、私たちが教会を成長させることはできません。それは神に属することです。その教会がキリストの命が流れている「真の教会」であるなら、教会は神の力により成長するのです。社会での割合としては少数派でも、少数派なりの形で教会は成長していくのです。それにもかかわらず、多くの教会が衰退の中にあるとするなら、キリストの生命の流れを阻害する何かが教会の成長を妨げていると考えるしかありません。

 キリストの命が教会に流れることを妨げる最たるものこそ、「説教のハイブリッド化」なのではないか、と思わされます。キリストは牧師を立てて、牧師に聖書を通して御言葉をお語りになります。牧師は聖書から受け取った御言葉を、会衆に語り告げます。会衆はそれを受けて週日の働きのなかへ出ていき、御言葉の力に支えられて自分の課題を果たします。そうすることで、神の言葉の力を自分の周囲の隣人に届けることになるのです。それを受けた隣人の中から教会へと導かれる人が起こされ、キリストの教会は新たに前進します。

 ところが、牧師が聖書からキリストの御言葉を聞かず、聖書ではない別の分野のなんらかの書物や情報の方の魅力に引き込まれてしまい、三位一体の神から身を背けるならば、どうでしょうか。会衆は牧師を通して語られる説教から御言葉を聞くことができません。御言葉の力がないまま、週日の生活に遣わされ、そこで疲れてしまいます。神への証しをすることができないので、新しい教会への出席者も起こされません。教会の歩みも停滞していきます。

 聖書を通して三位一体の神にまっすぐに向き合う牧師の姿勢が、教会の生命線なのです。「他分野」の思想と福音を混ぜ合わせてしまうことなく、ただ神のみに心を向け、聖書という純粋な恵みの泉から説教のメッセージをくみ上げ続けるから、教会はキリストの命の潤いを与えられるのです。その姿勢が福音と他分野の間でぶれてしまうときに、教会の歩みは困難さを増していきます。

 牧師が「福音」と「福音ではないもの」を、見分け、聞き分ける心を抱くことが、なによりも大切なのです。

 

教会が教会であるために

 説教が他分野の同調圧力によって変質してしまうとき、「まことの教会のしるし」である「福音の純粋な説教」が脅かされます。これにより、「教会が教会性を喪失する」という事態があらわれます。

 聖書は、キリストの教会についてのさまざまな約束に満ちています。「教会は聖霊の満ちておられる場である」、「教会はキリストの力によって、からし種のように成長する」、「嵐が吹きすさぶ困難も、キリストによって静められる」。こうしたすべての聖書に記されている神の約束は、「キリストの教会」に該当します。教会が教会性を保ち、まことの教会として立っているなら、教会はこれらの神の約束によって支えられ続けます。どんなにこの世の雨風が教会に叩きつけ、大水が押し寄せようとも、神の約束の土台は揺るがされることがありません。教会は神の約束によって確かに立ち続けます。教会にとってどんなに困難な時代であっても、神の約束があるならば、教会は時代の変動を貫いて歩むことができるのです。

 しかし、教会が教会であることをやめてしまい、教会性を喪失してしまうなら、神の約束が該当しなくなってしまいます。教会が教会性を失った単なる人間の交わりになるなら、神の約束の成就が欠けているため、次第に神の裁きが進行していき、歴史のなかに埋もれていってしまうでしょう。

 現代の教会の衰退の危機の根底には、こうした「教会の教会性の喪失」があり、それは具体的には「説教のハイブリッド化」による福音の変質に根があるのではないか、と思わずにはいられません。

 教会は、「教会である」ために「教会になる」必要があります。「教会である」という教会性は、神によって更新され続けなくてはならないのです。神から新しい御言葉を聞き、神を礼拝することによって、教会性は新しく神から私たちに贈り与えられるのです。礼拝を通して日曜日ごとに「教会になる」ことによって、教会はどんな困難をも貫いて生きることができるのです。なぜなら、神の約束が教会のうえに成就していくからです。

 教会が教会性をしっかりと神ご自身から受け取り続けるためには、「福音の純粋な説教」が教会の講壇から語られ続けなくてはなりません。そのためには、「福音」と「福音ではないもの」の両者を峻別する必要があるのです。両者の違いを明確にわきまえて、牧師は教会の講壇からはただ福音のみを語るのです。教会は三位一体の神を礼拝する交わりだからこそ、説教の中心であり、説教が会衆を導く先は常に三位一体の神であるはずです。それ以外のすべての話題や素材は、説教においてはただこの目的に奉仕するものとしてだけ、用いられるのです。説教において「主」は三位一体の神のみであり、他のすべては「従」なのです。

 しかし、多くの教会で、福音と他分野の混ざりものである「異なる福音」が説教され、教会性が失われる危機のなかにあるのに、なかなか気づかれていない現状があるのではないでしょうか。説教において、「主」と「従」が転倒状態になっているのです。「主」である三位一体の神を、説教の「背景」や「セッティング」、つまり「従」に追いやってしまい、「他分野」の思想を「主」としてしまっている説教が、教会を危機的な状況にしています。

 福音とは何か。そして、福音ではないものとは何か。この両者をしっかりと聞き分け、見分けることができるなら、教会は守られるでしょう。福音の純粋な説教が回復されることが、礼拝の回復となり、それが私たちの教会の生命が更新されることに繋がると信じます。

 

 これからの章を通して、以上のような角度から説教の本質を追求していきます。説教の本質が回復されたならば、そうした説教にはどのような社会的な影響の射程があるのか、その筋道もたどっていきたいと思います。