必要なことはただ一つ ~多元社会を生きる教会の役割~

 

目次

 序

第一章   教会の役割ではないもの

  1 教会は企業ではない 

  2 教会はカウンセリング・ルームではない  

  3 教会は政府ではない  

  4 教会は福祉施設ではない  

  5 教会は学校ではない  

 第二章 教会の独自の役割

  1 教会独自の役割  

  2 礼拝とはなにか  

  3 なぜ礼拝するのか  

  4 なんのために礼拝するのか  

  5 礼拝による人格形成  

  6 礼拝はどのように人格形成をするのか  

  7 礼拝はどのような人格を形成するのか  

  8 人格の未形成の問題  

 第三章 多元社会に対する教会の役割

  1 教会から企業へ  

  2 教会から病院へ  

  3 教会から政治活動へ  

  4 教会から福祉施設へ  

  5 教会から学校へ  

終章 多元社会を生きる教会の役割

  1 牧師の役割  

  2 信徒の役割  

  3 教会の役割  

 あとがき

※聖書の引用は、日本聖書協会 『新共同訳 聖書』からさせて頂きました


 

 「なんでも屋」としての教会

 教会とは一体なんなのか、わかりにくい時代となりました。

 もちろん、聖書的・神学的な概念で教会を捕らえて「キリストの体なる教会」「信仰者の母なる教会」「聖徒の交わり」「一・聖・公・使徒的な教会」という形で教会を定義することは今でも十分有効ですし、なされなくてはならないことです。

 しかし、最近よくわからなくなってきたのは、現代の社会のなかでの教会、という点についてです。教会は「なんでも屋」のように、なんでもできるし、なんでもするところだ、「愛」の名のもとにできることはすべてするのだ、と言ってしまった方がいいくらい、いろいろなことをしているのです。

 保育園・幼稚園や福祉施設を経営する教会があります。原発反対や環境問題に関する活動をする教会があります。新しい方法による伝道活動で人集めに邁進する教会があります。カウンセリングを実施して心病む人々のケアをする教会があります。貧困問題解決のために奮闘する教会もあります。こうしたすべてをしているのは同じキリスト教会の看板をかかげています。どこも信念をもってしています。

 しかし、こうして教会が「事業の多角化」とでもいわんばかりに、いろいろなことをしている状況は、果たして正しいのでしょうか。この問いに対して、筆者は本書を通して「間違いです」と答えていきます。「現代においては、教会が得意でないいろいろな課題に手を出し続ける限り将来はありません。教会は、自らの本質を見つめ直し、そこだけに集中すべきです」これが筆者が聖書に学び、教会形成に携わるなかで見出した教会の危機への一つの答えです。この背景にあるのは、「現代は多元社会である」という文脈です。

 

 現代は多元社会

 現代社会が「多元社会」となっていることを多くの社会学者が指摘しています。多元社会は、原理が違う様々な分野が多元的に織りなされて、そして互いの組織が有機的に補い合い、役割を果たすことで成立する社会です。私達の生きる社会はこうした複数的・多元的・重層的な社会になっています。ある一分野だけが抜きんでて他の分野を支配してしまうことは好ましくなく、それぞれが対等の立場で有機的に繋がりあい、補い合って役割を果たすことが求められています。そうすることによって、ある分野に資源が一極集中して、ある分野だけが社会のなかで優遇されるよりも、豊かでより多くの人々が生きる喜びと繁栄を享受できる社会になるのです。

 こうした多元社会の状況のなかで教会の占める位置が非常にわかりにくくなっています。教会が「なんでも屋」のようになってしまっており、教会独自の役割が見えにくくなっています。現代では教会はおよそあらゆる分野を手がけているように見えます。そして、教会の最も本質の部分になにがあるのか、それがわかりにくくなっているのです。

 

 多元社会への流れ

 しかし、教会が「なんでも屋」のようになってしまったことには、確かに歴史的な根拠があるのです。西洋史をひもとくと、およそ近代までは教会がまさに「なんでも屋」として、社会のすべてを支配していたのです。「この分野は、教会とは関係ない」というものは一つもありませんでした。およそあらゆる分野が神学者たちの理論を通して「神」と結びあわされ、政治・経済・科学・芸術・福祉・教育など、社会のあらゆる事柄は、教会の事柄でした。教会はすべてに関与しており、絶大な力を持っていました。

 しかし、宗教改革以後、近代が深まるにつれて、こうした教会の全般的支配のなかに「分化」が起こって来たのです。つまり、いろいろな分野は教会の支配から「独立」して、分かれていきました。こうして、教会とは別個の原理に従って、それぞれの分野は活動を始めました。

 結局、様々な分野が独立していくなかで、多くの人々が感じたのは、「様々な分野を運営していくには、『神』という考えが必要かと思っていたけど、必ずしも必要ではなかった」ということです。それぞれの分野は、それぞれ別の原理に基づいて、それなりにやっていくことができる、と人々は思いました。これが正しいか、そうではないかは別として、「それなら、もう『神』も『教会』もいらないぞ」ということで、それぞれの分野は、神も教会もなしに自らの基準に従って運営されて行くようになりました。

 こうして、教会の支配からさまざまな分野は独立して、それぞれが自分の原理に従って社会を回していくようになりました。現代では多様な分野が多元的に併存して役割を果たす社会となったのです。この経緯からすると、教会の遺伝子のなかには「なんでも屋」が入っているのですから、現代でもあの中世や近代初期の黄金時代を取り戻そうとして、「多角化」するのは理解することができる流れではあります。

 

 多元社会は神の意志か?

 ところで、多元社会は神の御心にかなっている、と言えるのでしょうか。

 これは「イエス」とも「ノ―」とも言えます。

 「イエス」というのは、「教会の全分野への一極支配」という中世的な状況は、明らかに人間性の抑圧を伴う側面があったからです。「異端審問」や「魔女裁判」は典型的な例です。また、現代では原理主義的信仰による「進化論否定」も類似しています。中世においては人間が自由に思考し、自由に研究し、自由に議論することを、教会は「教会の神学と違うことを主張するのは罪である」という理由で抑圧してきたのです。しかしこれは不当なことでした。宗教と科学は明らかに違う分野であって、違う原理に従って回るものですから、宗教が自分の原理の立場から科学を裁くのは不当な越権行為です。「宗教的真理」と「科学的真理」は性格が違います。両者は混ざることができないもので、はっきり区別する必要があるのです。こうしたことを明るみに出して、教会が人間性を抑圧するのを終わらせてくれた、という意味で多元社会は自由を尊ばれる神の御心にかなっています。それぞれの分野が、それぞれ別の原理と別の真理基準のもとで動くのは、多様性を喜ばれる神の御心にかなっているのです。

 しかし、現代では中世とはまったく逆の問題が出てきました。一つは「教会そのものが他分野と混合されてなんでも屋になってしまった」という教会の危機、そして「多元社会になったら、それぞれの分野は勝手にやっていけるから、もはや神も教会も無用なのだ」と、「教会」を全面的に否定する世俗主義が社会で支配的になったことです。これがなぜ間違いかといえば、「教会」は多元社会のなかで欠くことができない明確に重要な位置を占めており、これを喪失したら社会において機能不全が蔓延するからです。教会の否定は、宗教の社会における重要性からいって、多元社会を殺しはしても、生かすことにはなり得ないのです。教会は多元社会において果たすべき重要な役割があるからです。

 以上の二点の事柄は、いかなることなのかを考察するのが本書の課題になります。

 

 教会の危機・社会の危機

 教会が「なんでも屋」になっているのは、教会にどんな損害を与えているでしょうか。現代の教会が教勢の衰退現象に見舞われ、高齢化の進展のなかで存続が危ぶまれて、危機にあえいでいるのは、まさにこの点によるのだと筆者は考えています。教会が自分の最大の得意分野――この「得意分野」について、特に本書で論じていきますが――をないがしろにして、教会が卓越することができない分野に「愛」の名のもとに資源を使ってしまっている。それによって本来の得意分野で卓越した役割を果たすことができなくなり、成果をあげることができなくなった。これが教会衰退の根源的な原因であると考えています。

つまり、教会は自らに神ご自身から与えられている最大の得意分野である事柄に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」集中すれば、現在の衰退現象は時間と共に克服されていかざるをえないと確信しています。これができておらず、他の分野に労力・時間・お金・人材などの資源を分散してしまうことで、卓越した成果をあげることができないまま資源だけが浪費され続け、教会の生命線が絶え果てようとしている。これが筆者の現状認識です。

これを打開するには、教会の「なんでも屋化」「多角化」を「愛」の名のもとに正当化することを放棄して、自らの最高の得意分野にすべてを集中する。これをすることができたら、教会が存続を問われる、ということなどありえないはずです。これが教会の危機の克服に繋がるのです。

 同時に、こうして教会が本来の責任を「なんでも屋化」という微妙な形で放棄し続けたことによって、多元社会の方も少なからず損害を受けています。教会の役割は多元社会のなかに位置づけることができる重要な事柄であって、教会がこれを放棄することは、多元社会にもまた悪影響を与え、社会に機能不全をいくつかのことに渡って起こさざるをえないのです。

 この両者の危機に対応するには、教会が自らの本来の使命に目覚めることしかありません。そのために、教会はもう一度独自の役割を見出さなくてはなりません。

 

 本書の課題

 本書でたずね求めたいのは、多元社会のなかでの教会の位置・役割です。聖書的・神学的な視点は保持しつつ、多元社会のなかで教会が担って行く役割を見出そうと努めます。この課題のうちに、すでにある一定の方向性が示されています。多元社会のなかでの教会の位置を改めて見出すことには、大きく三つの「役割」を特定する必要があります。

第一に「教会がしないこと、教会の役割ではないもの」を特定することです。教会は多元社会で役割を果たしていくには、「なんでも屋」をやめなくてはなりません。多元社会では、何にでも手を出している限り、何者でもありませんし、何の役割をも果たすことはできません。そこで「教会の役割ではないもの」という章で教会の役割・本質と違うもの、教会がやめるべきこと、教会がしても仕方のないことをあげて、「なんでも屋」として多角化し、不要な看板をかかげてしまったものを次々に降ろしていきます。

そして、教会のただ一つの「独自性」を見出し、特定するのです。教会のオリジナリティーを再発見するのです。つまり、「他のどんな分野にもない、教会のみにある役割」を特定し、その本質を掘り下げて理解します。

第三に、その教会の独自性をもって、教会が多元社会に対して持っている役割を特定します。教会が独自の役割に集中して、これをしっかり果たしていくと、多元社会のなかでどんな展望を開くことができるのか。それを考察します。

最後に、多元社会のなかでの教会の役割をまとめとして描き、考察を終えます。

 以上の四点、つまり「教会の役割ではないもの」、「教会の独自の役割」、「多元社会に対する教会の役割」、そしてまとめとして「多元社会を生きる教会の役割」の四つを述べることによって、改めて教会の存在の意味を捉え直し、現代社会で使命を果たしていくためのヒントとなれば、というのが本書の主旨です。

 以上の事柄は、学問的に深めて考察すれば、豊穣な思想の流れが出てくる課題だとは思いますが、筆者にはこれを学問的に突き詰める力量も時間もありません。筆者にもできる書き方で、これまでの聖書、神学、他分野の学びのなかから形成されてきた考えを、平たい言い回しで書いていきたいと思います。

 本書の着想を得るにあたって、最も重要な示唆を受けたのはオランダ改革派教会の牧師を務め、またアムステルダム自由大学を創立したアブラハム・カイパーの思想でした。カイパーの「領域主権」の思想を、多元社会の文脈で、特に教会の役割に関して筆者なりにつきつめて考察したのが本書です。本書が同労の牧師の先生方、また教会を守る役員や信徒の皆様、また教会の使命をたずね求めている皆様にとって少しでもヒントになれれば、これに勝る幸いはありません。

 


 

 

第一章 教会の役割ではないもの

 

1 教会は企業ではない

 

 教会は企業?

 教会は企業である、という人がいたら、一昔前なら失笑を買ったと思います。教会と企業の本質がまったく違うものであることは自明でした。教会といえば、荘厳なオルガンと、厳粛な祈り、そして福音を告げる説教者の厳かな声、というイメージだったでしょう。こうした教会が、利益を伸ばすことを第一に追求する企業と違うことは、肌で感じることができたと思います。

ところが、現代ではそれがわかりにくくなりました。経済原理が世界を支配するようになり、およそ社会のあらゆる組織が、市場原理・競争原理の深い影響を受けるようになったのです。これによって、さまざまな組織が「企業化」してきています。どんな組織も、企業の原理に即して経営されるようになってきたのです。

教会もその例外ではありません。端的に教会を企業として理解して、教会を企業と同じように経営しているところも、アメリカなどでは非常に多くあります。アメリカの「メガ・チャーチ」という現象は、教会の企業化の最たるものです。地域の住民を「顧客」として理解し、顧客のニーズにマッチした礼拝をします。まばゆいライトのなかで、ワーシップ・ソングのライブが行われます。高揚感と恍惚感のなかで、「身近でわかりやすいたとえ話(笑えて泣ける)」をあふれるほどちりばめた牧師の説教が始まります。牧師は「経営者」として、「販売戦略」を策定し、聖書の感動のメッセージという「商品」を大量生産して売るのです。この商品を買った顧客はだんだんこのメガ・チャーチという企業が好きになり、洗礼を受けて「株主」となります。献金という「株式」を買い、総会という「株主総会」に出ます。アメリカのメガ・チャーチは、教会という名前のついた企業です。

 メガ・チャーチのまばゆい魅力を見聞きすると、多くの小さな教会の牧師や信徒は、「うちの教会もこうなったらすばらしいのに」という羨望を感じることがあるかもしれません。

 しかし、そもそもこうした教会形成のやり方は正当なものでしょうか。教会と企業は、簡単に融合してしまってよいものでしょうか。

 

 企業と教会の違い

 企業と教会はどこが違うのでしょうか。それについて、ドイツ語で「ゲゼルシャフト(利益社会)」と「ゲマインシャフト(共同体)」という言葉が使われることがあります。人間の組織は大きくこの二つに分けることができ、人類はまずゲマインシャフトから出発し、これが発展して近代化と共にゲゼルシャフトになっていくが、この二つは基本的に原理が違うのだ、ということを論じたのはドイツの社会学者テンニエスという人でした。

なにが違うのかというと、「共同体(ゲマインシャフト)」の場合は存在そのものに意味があるのです。「家族」や「国家」や「地域」といったものは、ただそこに存在して、存続していくことに意味があります。しかし、「利益社会(ゲゼルシャフト)」においては、組織そのものは目的のための手段に過ぎないのです。ある目的をもって結成され、そして目的を達成したならば消滅するのです。存在そのものに意味があるというよりも、目的を達成する限りにおいて意味があるのです。この違いをテンニエスは「本質意思」と「選択意思」という言い方で表しています。この二つは、存在のあり方として「在ること」と「すること」の違いとも言えます。共同体は、そこにあること、存続していくことが大事なのです。しかし利益社会では、なにかの目的を成し遂げなくては何の意味もありません。

 大きく言って、教会は「共同体」であり、企業は「利益社会」なのです。もちろん、教会にも「利益社会」の側面があり、企業にも「共同体」の側面があります。教会も目的に向けて働きを成し遂げなくてはなりませんし、企業も同僚同士でくつろぐ時が必要です。しかし、本質的な部分では、この両者にはそのような違いがあるのです。

 つまり、教会は神によってそこに建てられており、そこで礼拝がなされている、その事実が最も大切なのです。それに加えて、なにかを「する」ことは、オプションに過ぎません。逆に、企業はそこにあるだけでは無意味であって、何事かの仕事を成し遂げ、目的を達成しなくてはなりません。企業では、「在る」ことがオプションであって、目的の方が大事なのです。

 

 教会の企業化

 しかし、前述したように現代社会はあらゆる側面が経済原理によって支配されるようになりました。そこで、教会もこの世から企業化の圧力を常に受けており、多くの教会が企業化しています。

 教会にとって本質的なことである「神によってそこに存在するのを喜ぶこと」、つまり「礼拝」よりも、世の中に出て行ったり、なにかの目的をやり遂げることを重んじる「活動」の方に重点が置かれている、ということです。教会が「そこにあること」以上のなんらかの大きな目的を掲げて、それに向かって奮闘努力する、という形を取るとき、そこには避けがたく企業化の危険があることになります。

 もちろん、教会でもこうしたことは大事なのです。教会も会堂建築をしたり、伝道活動をしたりする必要があります。企業的な側面を全部殺してしまうことも、ある意味では間違いなのです。

しかしそうは言っても、私たちは本質を誤認しないようにしなくてはなりません。会堂建築も、伝道活動も、他の様々な働きも、すべてはただそこに在り、神を喜ぶ「礼拝」のためにあるのであって、礼拝よりも活動を重んじるような姿勢が広がれば、教会は共同体としては崩壊せざるをえない、ということです。

 

 なぜ教会は企業化するのか?

 なぜ教会は企業のようになっていってしまうのでしょうか。それは、世の中すべてを経済が支配するようになったことで、共同体は力を失い、機能しなくなっていることをだれもが感じているからです。これまでの「共同体」的なやり方では、現代の社会の在り方に適応できない。そんなことをしていたら、時代に取り残され、だれも教会には来なくなる。だから、現代社会に適応させるために、教会をかなりの程度企業化することで、多くの人に対して教会の存在をアピールできる、ということでしょう。

 近代化が進むにつれて、確かに「共同体」は全体として衰えてきました。「家族」も「国家」も「地域」も、だんだん崩壊して人間関係が希薄になり、機能しなくなっていきました。教会も例外ではありません。ゲゼルシャフトを極限まで推し進めようとする現代のなかで、教会は大きな危機のなかにあります。一言で、「教会に人が来ない」ということです。利益の結び付きがない限り行動を起こそうとしない現代人にとって、教会での人間関係や「そこに在ること」を重んじるなどという姿勢は、「わずらわしい・面倒くさい」の一言です。こうした危機意識を抱いて、「だから教会を企業化して、そういう現代人でも気軽に来れるような教会に変えるしかないんだ」ということで、教会の企業化が推し進められているのです。教会をビジネスとして運営していく、ということです。

 教会の企業化は、こうした近代化が極限まで進んだ現代における、教会人の危機意識の所産なのだ、と言っていいでしょう。困難のあふれる現代においても教会をやっていくには、企業化しかないのだ、ということです。

 

 教会の企業化によって失われるもの

 しかし、教会の企業化はもしかしたら正しいのではないでしょうか。現に、小さな形でもビジネスライクにやっている教会にはそれなりの人が来ています。メガ・チャーチは大繁盛しています。やはり、現代においては教会の企業化が避けて通ることができない道なのではないでしょうか。企業化こそが正しい道なのではないでしょうか。

 確かに、ある一面においては教会は合理化や効率化を必要とします。また、一定の目的を定めて、一生懸命に活動していくことも必要かもしれません。そういう意味では、企業的な側面にある程度学び、良いところを取り入れる、という試みは否定されるべきではありません。

 しかし、教会が企業化されることによって、教会はその最も本質的なところを失ってしまうのです。つまり、教会は「活動」によってではなく、「信仰」によって、つまり「そこに在って神を喜ぶ礼拝」によって生きる、という点が失われてしまうのです。

企業的な手法を取り入れて教会を運営する、ということもある程度までは可能です。しかし、それを教会の本質の部分にまで推し進めたらどうなるでしょうか。「教会が生きて行くことができるのは、どれほど神を信じたかではなく、どれほど働いたかによるのだ」という考えが教会を支配します。礼拝ではなく、伝道活動、奉仕活動、地域貢献活動、その他あらゆる活動がメインになります。すると、「信仰によって生きる人々は、アブラハムと共に祝福されています(ガラテヤ3:9)」という聖書の教えが消えてなくなり、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています(ガラテヤ3:10)」という律法主義が、教会を縛り付けるようになるのです。企業は「目的に向けての活動」が本質ですから、それを教会に適用したら、「行い主義・律法主義・活動主義」の教会になり、パウロの教えからも、プロテスタントの先達であるマルティン・ルターやジャン・カルヴァンがパウロに従って教えた「信仰のみによる救い」からも、完全に逸脱してしまうのです。

こうして、教会を企業化すればするほど、存在の喜びは失われ、行いのみに駆り立てられる縛りに満ちた律法主義教会になる。これが教会の企業化によって確実に起こることなのです。ピーター・ドラッカーという経営学者は著作のなかで「非営利組織」として成功しているメガ・チャーチを高く評価していますが、上の事柄への理解がなかった点において、メガ・チャーチを21世紀の代表的な教会とするという間違いを犯してしまいました。また、ドラッカーは教会の聖書的・神学的理解を持たなかったため、本質的な部分でまったく教会を理解し損ねています。彼の多元社会論は社会の分析として参考になりますが、神学的な視点からして彼の教会論は事柄の現象面しか見ていない誤りであると言えます。

 

 マネジメント・セオリーと聖書は違う

 企業を経営していくには、マネジメント(経営学)の理論や実践をある程度学ぶのが普通です。最近では、マネジメント・セオリーを使って教会形成をしよう、ということが増えています。ところが、これと聖書の教えを明白に区別しないで教会に適用することが本質的な間違いなのです。

 マネジメント・セオリーは基本的に、人の「行動」や組織の「仕組み」を扱います。教会にも、人の行動や組織の仕組みがありますので、そういう外面的な部分には、ある程度適用することはできるのです。そうした部分を、教会の教理や伝統に反しない形で合理化・効率化するために適用するのは、間違いではありません。

 ところが、マネジメント・セオリーは決定的な部分で、聖書の教えと性格を異にしています。それは、こうした理論はあくまで外面的なことを管理することが目的であるのに対して、聖書は人の内面の信仰が正しく、豊かになることを主眼にしており、外面的なことについては、信仰の後に従う結果なのだ、としていることです。

 マネジメント・セオリーをまじめに教会に適用すれば、それは外面的なことの管理に主眼が置かれていますから、ちょうどファリサイ派が律法を外面的に守ることに徹底することで内面の信仰の豊かさを押し殺したのと同じことが起きてしまうのです。外面の正しさ、豊かさ、力強さを追求するあまり、聖書の示す内面の力を置き去りにし、人を管理する法則だの教えだのをあふれるほどに課することで、教会を恐ろしい力で律法主義化するのです。

 マネジメント・セオリーはそれがあくまで人間や組織の外面的なことを扱っているものとしてしっかりとわきまえて、聖書とは基本的に本質が違うことを知っておけば危険はありません。ところが、その区別が混同されて、「教会も経営学で運営していけば、よりパワフルになるのではないか」という間違った考えで経営理論を適用すれば、ファリサイ派と同じ道をたどることは必定です。

 

 「達成」と「喜び」

 企業は、ある目的を定めて、それを達成することがなければ、意味がありません。具体的な行動をすることによって、ある事柄を達成していくことに企業の存在理由があります。製品を作って売ることによって、目的達成するのです。

しかし、教会はそういう意味では何事かを達成するための存在ではありません。教会は、「今・ここ」で神を喜び、与えられている隣人を共に喜ぶところに意味があるのです。行動を起こすことではなく、聖書の言葉を聞くこと、祈ること、つまり礼拝することが教会の存在の意味です。企業が果てしない達成の連鎖であるとしたら、教会は深い静けさのうちに湧きでる礼拝の喜びです。企業は、将来達成すること、そして達成したなら更に次に向かうことが特徴ですが、教会は今与えられている喜びに留まり続けることが特徴なのです。企業は目的を達成しなかったら消えてなくなりますが、教会は神を喜ぶことができなくなったら消えてなくなります。目的を達成し続ける企業が「良い企業」なのですが、神と隣人と共にある喜びに留まり続ける教会が「良い教会」ということになります。

 企業と教会は、同じ人間の組織であるとしても、根本的に性格が違うのです。人間の存在の在り方に根差す原理が違うのです。そこを混同して、水と油のように違うものを混ぜ合わせようとしたら、それは両者にとって致命的・悲劇的なことです。

 

 企業の役割、教会の役割

 それでは、この両者の本質が違うということをはっきりとわきまえたうえで、両者にはどのような役割があるのでしょうか。

 企業の役割は、ある目的を達成し続けることで「社会を発展させる(人々の生活を向上させる)」ということです。企業が資源をよりよく管理しながら、安くて良質な製品を作り続けることで、社会によい製品が行き渡り、それを多くの人々が購入して、生活を改善し、向上させることができます。こうして、企業の働きによって、社会全体に安価によい製品が行き渡り、人々がより快適な暮らしを実現することができます。

 一方、教会の役割は「生きる喜びを知らせる」ということです。教会が伝えるのは、なにかの働きがなくても、「今・ここで神において喜ぶことができる」ということです。何事も達成していなくても、今の自分が神に受け入れられ、生きることそのものを喜ぶことができることです。企業は「達成」が存在理由のため、必ず社内でも社外でも能力競争となり、力のないものは衰えていきます。しかし、教会は力がなくても、知識がなくても、どんな人間の側の資格や条件がなくても、ただ神の恵みを受け取ることで、喜びが与えられる、そういう在り方に留まる、ということです。

 

 多元社会において企業と教会は相補的

 お互い根本的に役割も原理も違う企業と教会という二つの組織ですが、現代という多元社会のなかで、両者共に必要な組織であることは明らかです。両者は人間の不可欠な存在の在り方に根差すものだからです。この両者は、多元社会という文脈では相補的な意味を担っているのです。

 社会のなかの一切が会社であるならば、人は「どんな状況にあろうと、今を喜ぶことができる」という視点を失ったまま、ひたすら走り続けるしかありません。するとどうしても「疲労」が蓄積する以外にありません。現代はほとんどの人にとって、疲労を飽くことなく蓄積していく社会なのです。

しかし、教会が社会のなかで役割を果たすことによって、「立ち止まり、見つめ直し、神によって今を喜ぶ」という視点が導入されます。蓄積され続ける疲労の隙間に、「神の安息」という一時の静かな休息が入ってきます。一週間のうち、日曜日に神を礼拝する、という礼拝による休息です。

これによって、企業の働き続け、達成し続ける、という無限連鎖のような生活に、神の新たな安息の世界、という次元が入り込み、そして「活動」一辺倒だった生活に「喜び」が割って入り、こうして蓄積されるほかなかった疲労が、新しい次元によってリセットされる、というリズムができあがります。こうして、社会生活に教会生活が入ることで、企業での生活もまた神の安息によって潤いが与えられることになります。

 逆に、もし社会のすべてが教会だけなら、社会が発展することもありませんし、存在の喜びはあっても、働きが静止した社会になり、人間の生活や暮らしが豊かになることはありません。企業の働きがなければ、各人が社会の中で力を発揮して活躍する場もありません。自らの目的を達成し、高めて行くこともありません。

 こうして、企業と教会は、お互いに足りないところを補い合いながら多元社会を共に生きる、という性格をもつものであって、お互いを排除し合うものではありません。また、お互いが混ざり合ってしまうのも間違いなのです。

 

 自らの本質に忠実になること

 こうして、両者が多元社会のなかで役割を果たすためには、お互いが違った存在の方がよいのです。教会が企業みたいだったら、企業での疲れはどうして教会で癒されるでしょうか。また、企業が教会みたいだったら、どうして社会の発展のために懸命に活動することができるでしょうか。お互い本質が違っており、そしてお互いがその自らの本質に忠実であるときにこそ、お互い補い合うことができるのであって、お互いが混ざり合ってしまったら、多元社会の中で役割を果たすことができません。

 多元社会のなかでそれぞれが役割を果たし、補い合い、よりよい歩みをしていくには、企業は徹底的に活動的であり、教会は徹底的に存在的、つまり礼拝的であることが大切なのです。つまり、企業は「行動」がいよいよ盛り上がり、いよいよ力強くなっていくことがよいことであるのに対し、教会は「礼拝」が神の前に深い存在の静けさのなかで、神の聖なる生命にいよいよ浸され、輝いていくことがよいことなのです。

 お互いが自らの本質に徹底的に忠実になることによって、初めて効果的に役割を果たすことができるのです。教会がいよいよ「活動的」になり、企業がいよいよ「存在的」になることは、ある意味ではお互いの本質を壊してしまうことになります。多元社会のなかで企業と教会が相補的な歩みができなくなってしまうのです。企業と教会がお互い「違う」こと、そしてそれをわきまえてその違いに忠実になることが、お互いにとっても社会にとっても良いことなのです。

 

 互いに学ぶべきところ

 企業と教会の両者が違うということが、お互いにとっても社会にとってもよいことなのですが、しかしある一面において、企業がより教会的になり、教会がより企業的になった方がよいところがあります。お互いに学び合うことで、お互いがよりよく歩むことができるようになるところがあるのです。

 まず企業は、教会から「奉仕・謙遜の精神」を学ぶべきです。企業の働きは、「行動」がメインですから、ともすると「人の業績」が中心となり、傲慢を助長する面があります。また、「人に仕える」というまことのサービスの精神を、企業は教会から学ぶことができます。こうした真のサービス精神に満ちた企業の製品の方を買い手は信用します。奉仕と謙遜の精神を経営者も社員も身に着けることで、企業はより秩序と力強さに満ちて働きをすることができるのです。教会から企業がこの精神を学ぶことによって、資本主義社会で競争に勝ち残る力を教会から汲みとることができるのです。経営者や社員が教会に来ることは、企業が生き残るためにもよいヒントを与えてくれるのです。

 また、教会は企業から「働きの合理化・効率化」を学ぶべきです。教会も人の組織ですから、「行動・活動」に関する面がかなり多くあります。様々な会議や働きが教会にもあります。そして、教会はともすると、「存在的」であろうとするあまり、人の行動に関する部分で「無駄・浪費」が多い、ということになりがちです。だらだらとした長時間の会議や、進展しない働き、効率的でない事務など、時間や労力といった大切なコストを浪費することになりがちです。そこで、企業のやり方に学んで、そうした無駄を省き、働きを合理化・効率化することによって、より多くの時間と労力を「礼拝」に割くことができる、ということになります。こうして、働きの合理化と効率化を企業に学ぶことで、教会はより礼拝に集中することができ、自らの本質に忠実になれる、ということがあるのです。だから、牧師や役員が企業のやり方を学ぶことには、より礼拝に集中するためのヒントも受け取ることができるのです。



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