礼拝の力

~教会の衰退を越えて~

 

目次

 

第1章 教会の原点へ立ち返る旅

 

第2章 教会の本質である礼拝

 

第3章 礼拝がもたらす人格形成

 

第4章 教会と企業

 

第5章 教会と病院

 

第6章 教会と政治

 

第7章 教会と福祉

 

第8章 教会と教育

 

第9章 多元社会を生きる教会の役割

 

※本書は「舟の右側」(地引網出版)に2015年4月~12月まで連載した「必要なことはただ一つ」をまとめたものです。

 

※聖書は『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。

 

 

 

 

 

第一章 教会の原点へ立ち返る旅

 

旅のはじまり

 2008年の3月末、私は結婚したばかりの妻と一緒に、大分県別府市の教会に赴任しました。空港に長老のご夫妻が迎えにきてくださいました。キラキラ輝く国東の海の水面を見つめながら、車に乗って教会の状況のことなどをお話しながら教会へ向かったことを昨日のように思い出します。

やがて別府の駅前の教会に着くと、教会の兄弟姉妹が出迎えてくれました。お茶を飲みながら、笑顔で話される教会員の皆様のお顔を見て、私は希望に溢れていました。「これから、この教会で力の限り伝道して、人が目をみはるくらい受洗者を生み出して、新しい時代を築いていこう」とまあ、今考えると笑ってしまうくらい力んでおり、理想と情熱に燃えていました。

 説教・牧会の生活が始まりましたが、地方伝道の状況というものが、私はまだよくわかっていませんでした。しかし、半年もすると、だんだんどのような壁があるのか、うっすらと見えてきます。

 そもそも、新来者がいません。温泉が目玉の観光都市ですから、旅行者はときどき礼拝に来られます。しかし、定着して求道する、という人がほとんどいません。礼拝出席者数は毎回27名くらいで、30名を越えると「今日は多いな」と感じます。ほぼ毎週同じメンバーで、変化はほとんどありません。

 そして、なにより考えざるをえなかったことは、教会を心血注いで支えてくださっている方々の多くがご高齢だったことです。70歳以上の方々が主力メンバーで、本当に献身的に教会を支えておられました。そのお姿に大変励まされる半面、現実的には10年後を展望することさえまったく不可能な状況でした。仮にそれが5年後であっても、主力メンバーの方々のなかに病気などで教会に来られない方々が出てくると、伝道活動する力もなくなり、教会予算も成り立たなくなることは明らかでした。

 教会に出席されている方々の世代を見ると、60代以下の教会員がわずかしかおられませんでした。なにより、教会学校の子供をのぞけば、牧師である私自身が教会のなかで最年少なのです。教会を担っていく次の世代がいなければ、そこで教会の歩みも終わりになってしまわざるをえません。

 「一体、この状況をどうすればいいんだ」という悩みと私なりのあがきが始まりました。「この閉塞している状況を突き破るなんらかの解決策を見出さない限り、この地での教会の歴史が終わってしまう。結局、どうすればこの状況を貫いて教会は生きることができるのか」

これが私の旅のテーマとなりました。

 

あがき

 何事も、まずは知識として知らなくてはなにもできません。こうした閉塞状況を突き破るような知恵や知識を、だれかが既に知っているかもしれません。私は改めて神学書や信仰書に目を向けて、いろいろと読み始めました。

 日本基督教団に属している教会ですが、教派にとらわれず、ヒントになるものなら何でもいい、という思いでさまざまな書物を読みました。そして、「これはできるかもしれない」と思ったことを、試行的に次々にやっていったのです。「藁にもすがる」思いでした。

 市役所に行って市の人口統計を調べ、折込広告やポスティングをしました。戸別訪問をして、地域の課題や教会に対する意識についてのアンケートを取りました。「バイブル・カフェ」という気楽に来られる聖書研究会を設けました。英会話教室を開いて、子供たちを呼びました。その他、さまざまな取り組みをしました。

 これら一つひとつについて、私自身にも教会員の皆様にとっても、学ぶことがあり、意味がまったくなかったとは言えません。長期的に見れば、神様のご計画のなかで、大きな視野においては用いられるものもあるように思います。しかし、はっきりしていることは、これらの働きによっては、直接的には受洗者は生まれなかったことです。教会に定着して礼拝出席するようになった人も、一人もいなかったのです。

 虚脱感と徒労感は大きいものがありました。参考書をたくさん読み、一生懸命語り合って適用できるところを応用して様々な試みをやってみたのに、何一つとして「成果」らしきものが見当たらなかったのです。それどころか、これらをするために投入した時間・体力・精神力は私たちにとって非常に大きいものがあったのに、そこから生まれて来たものといえば、まったく見えない、まったくわからないという状況に、愕然としたのです。

 

あがきを手放す

 確か赴任して3年目の頃だったと思います。そのとき、牧師館・集会室の建築の業にも着手しており、幼い娘の子育てしながらの歩みは多忙を極めていました。会議中にも思い煩いや、将来への不安がきざしてきました。「これだけ様々なことをやっているのに、何の成果も見えない。自分のしていることには意味があるのだろうか」という懐疑の念も生まれていました。伝道者としての自分の働きに、意味や価値が認められなくなっていました。

 そしてある日、ふっと「もう、だめだな」と思ったのです。これだけ学んで、努力して、結局なんにもならなかった。地方伝道の壁を打ち壊してやるぞ、みたいなことを考えていたが、そんなのは青臭い幻想にすぎなかった。やれることは自分なりにやってみた。それで、成果はなかった。もう、自分としてはだめだ。こういう結論を下さざるをえなかったのです。

 ところが、そうして自分としてはもうだめだと握りしめていたものを手放すと、なんだか胸のうちがスッキリしたように思いました。不思議と重苦しい気分が晴れて、楽になったのです。「もう、自分はだめだ」という「死」にも似た想いは、私の心をどういうわけか解放してくれたのです。

 「自分としてはもうどうしようもないから、とにかく与えられること、示されることをやれるだけやって、あとは神様がなにをしてくださるのか、見てみよう」という妙にふっきれた思いになったのです。

 ところが、そうして手放してからです。新しい不思議な風が教会に吹き始めたのは。

 

霊的求心力

 私自身も最初よくわからなかったのですが、礼拝している最中、以前には感じられなかったような充実感、満たされた思いが礼拝堂に満ちているような印象になりました。どうもそれは、私個人ばかりでなく、会衆全体からも発散されていました。そして、不思議なことにどこからともなく人がやってきて、転入会をされたり、洗礼を受けられたりするようになったのです。私や教会員の皆様がその人のところに出かけて行って、つかまえて引っ張って来たわけではありません。あんなに努力していろいろやっても来なかったのに、これは一体どういうことなのか。これは私にとって、大変な驚きでした。

特別な「人集め」のような働きは教会としてほとんどしていないのです。そういうことをしても成果が見えないことに疲れ果てて、手放してしまったのです。ところが、聖霊の新しい風、新しい流れ、新しい霊的圧力のようなものが礼拝のなかに生まれると、それが教会に渦巻き始めて、そこに人が吸い寄せられるように導かれてくるのです。霊的求心力とでも言ったらいいでしょうか。なにか、主イエス・キリストと聖霊なる神から注がれる、「礼拝しているときに充満するキラキラした恵みの渦」があるのです。そして、その力に吸い込まれるようにして、私たちの視野にまったくなかったような人が導かれてくるのです。

 赴任したときは5年後の展望さえ不可能と思えていましたが、それは私の人間の思いに過ぎませんでした。新たに受洗者、転入会者の仲間が加えられて、教会は5年後も確かに立ち続けていました。

 5年後には私が赴任したときの礼拝者の半数くらいが、さまざまな理由で出席がかなわなくなりました。もしそのままであったのならば、教会は非常に困難な状況になっていたことでしょう。ところが、新しく与えられた信仰の仲間たちによって、教会はしっかりと担われていたのです。

 私は、このことの意味について熟考せざるをえませんでした。

 

教会の本質

 最初、私は無意識のうちにも教会というものを人間的な「組織体・機能体」として考えていたのです。「企業」や「役所」や「福祉施設」、「病院」といったものと、基本的に似たような性格のものと思っていました。教会は「三位一体の神」というお方のことを広める、という役割を果たしているけれども、それは学校が知識を教授し、病院が医療を施し、役所が市民をサポートするのと似たようなものだ。つまり、人間がマネジメントして成果をあげ、うまくいくように取り計らうものであって、そこで鍵を握っているのはあくまでその組織を運営している牧師や教会員という人間なのだ、ということです。牧師や教会員のマン・パワーによって事は決せられているのだ、というふうに思っていました。事実、「カリスマ的」といわれる牧師がいる教会は、非常に成長しているように思えたのです。

私は、教会をなんらかの伝道的な方法論とスキルによって運営すれば、人が集まってきてうまくいく、その伝道の方法論やスキルの素晴らしさによって教会は維持されるのだ、という勘違いしていたのです。だから、そうしたものを身に着けて実施することに必死でした。そうしたものが教会の生き死にを決めるということを、愚かにも無意識のうちに信じていたのです。

 ところが、事実はそうではありませんでした。教会を維持し成長させているのは、まったく次元が違うものだったのです。私は教会の本質を完全に履き違えていたのです。「おまけ」を「本質」と勘違いし、「本質」を「おまけ」と思っていました。完全に本末転倒状態だったのです。教会においては、方法論やスキル、外へ向けての活動こそが「おまけ」だったのです。これらは「してもよいけど、必ずしもしなくてもよいもの」であり、「すればよりよいが、必須ではない」ものだったのです。教会の本質は別のところにありました。

 これまでの歩みをいろいろと思い返してみました。伝道の方法論やスキルに夢中になっていたときは、何をしてもうまくいきませんでした。これらは本質ではなかったのです。ところが、教会のうちには脈々と流れ続けているものがあったのです。それは、代々の教会が立ち続けて来た「ごく当たり前のこと」です。教会が世代から世代へと受け渡してきた教会の「根幹」であり、「本質」です。

 それは、働きに即していえば「礼拝」であり、メッセージに即していえば「福音」であり、人間の内面に即していえば「信仰」です。このライン、この線上においてこそ、教会の生命は決せられていたのです。ここにおいて教会の「すべて」が決まっており、その他のことは、伝道の方法論やスキルも含めて「おまけ」に過ぎなかったのです。

 教会にとって本質とは、そこで三位一体の神への礼拝がなされており、その礼拝で福音がはっきりと宣言されており、そして礼拝のなかで福音の力によって会衆の信仰が誕生し、更新され続けている、その神の実現しておられるリアリティそのものだったのです。そのなかに神による霊的求心力が生じることが「伝道」だったのです。

 私はこの「根幹・本質」部分は、教会にとって「ごく当たり前のこと」だから、「実は大切なのはここじゃない。別のところで戦いの勝ち負けは決まっているのだ」と勘違いしていたのです。しかし、実は教会の戦いのすべては、ここでこそ決せられていたのです。礼拝・福音・信仰。この線上でこそ教会の勝ち負け・生き死には決められているのであって、他のすべての方こそが「おまけ」に過ぎなかったのです。「おまけ」の方を「もうだめだ」と手放して、本質部分に集中し始めると、変化があらわれてきた、それが私の経験したところです。

 

見えてきた「教会衰退現象」の実態

 教会の生命が決せられている「本質」と、教会にとって「おまけ」である部分。ここの部分について、私は「本末転倒」をしていました。「おまけ」の部分を手放して、「礼拝・福音・信仰」という部分に黙々と集中し始めたときから、新しい風が吹き始めました。

 日本の教会のみならず、欧米の教会でも「主流派教会(メインライン・チャーチ)の衰退」ということが叫ばれています。日本の地方教会では、この傾向が如実にあらわれています。多くの教会が存続を問われるような厳しい時代に、既に突入しているのです。

 ところが多くの教会の働きの実態は、どうでしょうか。教会にとっての「本質」と「おまけ」、牧師と教会員はどちらに集中しているでしょうか。

 さまざまなところで見聞きした多くの教会においても、私が以前していたのと基本的に同じことがなされていました。つまり、「おまけ」の部分に集中して時間・労力・祈り・資金を投入していました。ところが、「本質」の方については、どうなのかと疑問に思えるくらいの資源しか注いでいなかったのです。

 「おまけ」の部分には、様々なバリエーションがあります。代表的なものに「付帯施設」の運営があります。牧師自身が園長になってマネジメントに従事している施設もあります。保育園、幼稚園、福祉施設……。NPO的な社会活動に参与している教会もあります。原発反対、基地反対、憲法改正反対、その他さまざまな政治的反対運動をしている教会もあります。教会を「文化センター」か「学校」のようにしているところもあります。英語教室、ダンス教室、書道教室……。もしくは、教会がイベントを行う「企業」のように、集客やマーケッティングの手法を使って伝道活動している教会もあります。基本的に、「おまけ」になるのは教会が代々守って来た事柄ではなく、「他分野」のうちに認めることができるなんらかの働きです。

 牧師にも、教会員にも、神から与えられている「資源」には限界があります。無限に投入することができるものではありません。私達は限られた時間、エネルギー、知識、資金しか持ち合わせていないのです。この神から与えられている限られた資源をどう使うのか、というところに、決定的な本末転倒があるように思われてならないのです。つまり、多くの「衰退」を経験している教会においては、以前の私のように「おまけ」のために大半の資源を使ってしまい、教会の生命線である「本質」の事柄には、「おまけに使った後で余っている資源」しか投入していないように思えるのです。もしそれが実態にあるのだとするならば、衰退しない方がおかしい、ということになります。

 教会にとっての本質である「礼拝・福音・信仰」そのものを深め、その質を向上させることに一筋に注力しているからこそ、教会は前進し、成長することができるのです。ここがしっかりとなされて初めて、他分野の働きについても活かされる道が開かれてくるのです。

 

「教会の本質」と「他分野」の混交

 「本質」と「本質でない働き」の本末転倒が、衰退現象の背後にあることが見えてきました。それを追求していくと、さらに根深い問題があることに気付かせられました。

 それは現代においては、「教会・福音・信仰」の理解と実践そのものが、代々の教会が守ってきた基本的な神学と「他分野」との混交になってしまっている、という現実が存在することです。

 「教会とは何なのか・福音とは何なのか・信仰とは何なのか」という最も根本的な理解の部分において、現代の多くの教会で「ハイブリット化現象」が起きていたのです。教会がなんらかの「他分野」と融合・混交することによって、教会の本質が放棄・破壊されて、「教会の世俗化・他分野化」が起きていたのです。

 たとえば、「企業と教会」が融合し、教会を企業として形成する。「政治と教会」が融合して、政治活動を推進する教会になる。「福祉と教会」が混交して、福祉を担う教会が誕生する。「学校と教会」が融合して、授業的に知識を伝達する教会になる。

 福音理解においても、「成功するための福音」が語られる。「健康のための福音」、「道徳のための福音」、「イデオロギーとしての福音」……が礼拝で説教される。

 信仰理解の面でも、信仰の対象が心底から三位一体の神に向かっているのか、それとも別の存在になってしまっているのではないか。信仰の本質を履き違えているのではないか。信仰の源泉をどこに求めているのか。

 「礼拝・福音・信仰」という教会の「本質」が、「他分野」の存在によって脅かされて混交してしまい、教会が自らの生命線を放棄してしまっている。教会の「独自性」が失われてしまっている。ここに、教会衰退の急所があるのではないか。それなら、「本質」と「そうでないもの」の「境界線」を見抜いて確立することが、衰退現象の克服につながるのでは……。

 このテーマについて考え抜いてみたい衝動にかられて、電子書籍で三部作を書きました。『必要なことはただ一つ』、『ただキリストを伝えよう』、『ただ信ぜよ』という著書です。どれもアマゾンで販売されており、kindle版でダウンロードできます。PCやスマートフォンでもお読み頂けます。

 荒削りの素描に過ぎませんが、教会・福音・信仰の本質を探る旅路を、一緒にたどってま