聖書が教える「人数」の三原則

 

目次

序章 教会でいつも気になる「人数」

第一章 神の祝福と「人数」

第二章 神の栄光と「人数」

第三章 神の真理と「人数」

第四章 イエス・キリストと「人数」

第五章 初代教会と「人数」

第六章 「人数の三原則」を活かすために

あとがき

 

 

序章 教会でいつも気になる「人数」

 

 「礼拝は何人?」

 どこか外出先で初対面の人と出会ったとき、話していると相手も自分と同じようにクリスチャンだ、ということがわかったとします。

 すると、「そちらの教会はどんな教会ですか」という話になります。その教会の規模を知ろうとして、「礼拝には何人くらい来られているのですか」と聞くことがあると思います。相手が「200人です」と答えれば、日本であれば「随分大きいですね」ということになります。「5人で礼拝を守っています」と答えれば、少人数でがんばって礼拝を守っているのだな、と思うでしょう。

 牧師同士の会話でも、初対面の牧師同士だと、相手が牧会している教会の人数は、知っておきたいところです。牧師だと人数だけでなく「増えていますか? 減っていますか?」というところも聞きたくなります。

 信徒にしろ、牧師にしろ、「礼拝出席者数」は気になるところです。

 多くの教会では役員会での協議事項のなかに、「教勢報告」という項目があります。そこではその月の出席者数の昨年比とか、平均値とかが報告されて、役員も牧師も「減った」とか「増えた」とか、一喜一憂しているのです。

 教会の場合、人数の多少が財政規模とほぼ正確に比例関係にあります。人数が多い教会はそれだけ財政規模も大きく、少ないほど小さくなります。

 そして、そこに微妙な問題も出てきます。その牧師がどの程度の規模の教会を牧会しているかで、その牧師が教会からもらっている謝儀の額も大きく違います。牧師といえども罪人ですので、そうしたところでは羨望や嫉妬といったものが入り込んできたりすることもあるでしょう。教会間での「格差」ということが言われることもあります。人数が多い都市部の教会の牧師は退職金も豊かなのに、人数の少ない地方教会で労した牧師への退職金はごくわずか、といったことです。

 また、「大きな教会の牧師ほど力量がある」とか「大きい教会ほど、それだけ神に祝福されている」というような考えを抱いている人もいます。逆に、「小さな教会の方が、信仰が純粋なのだ」という人もいるでしょう。こうした教会の規模をめぐる違いというのは、牧師も信徒も感情に触れてくるところがあります。

 特に教会形成を担っている牧師や役員にとっては、教会の人数は日常的に重大な問題であり、最も気になるところです。「教会の人数」は単なる数の問題ではなく、根深い感情問題でもあるということです。

 また根本的には、教会に人がいなくなれば、事実上そこにはもはや教会はなくなるので、人数は教会の「存続」を決する事柄でもあります。これは現代の教会が問われているところです。

 多くの教会で人が減って行くということを経験しています。こうした現実をどう解釈するのか。「人が減る」ことをどう受け止め、どう対処していくのか。これは緊急の課題になっています。世界的な規模で進行する激しい世俗化の過程のなかで、存続を問われる教会が相次いでいるのです。

 今の時代は特に、「人数」の問題への理解が、大切な課題になっていると思います。

 

 「人数」についての意見

 これまで牧師として歩むなかで、「人数」についてなされたコメントをいろいろ聞きました。

 「教会では人数なんて関係ない」という言葉を聞きました。一理あるな、と思わせられます。教会での中心的な課題は私自身も明らかに人数ではないと思います。

 しかし、「関係ない」と切り捨てて、考えないようにすることができるのだろうか、もしくは現状肯定に留まることができるだろうか、とも思います。

 一方で「結局、教会は人数なんですよ」という言葉も聞きました。人数のある教会には力があるので、その力が正しく方向付けられれば、社会にも多大なインパクトを与えて、社会をよりよくすることができる、というのです。これも一理あるな、と思います。

 しかし、教会を一面的に人数的な観点でとらえるのは、あまりに「権力」を志向する政治や「市場占有率」を気にする企業に近いのではないでしょうか。こうしたことをあまりに追求していくと、聖書の語る教会から離れて行くところがあるようにも思います。

 「人数は関係ない」でもなく、「人数がすべて」でもない、「人数」についてのバランスが取れた深い理解が求められていると思います。

 まずは、聖書が人数についてなにを語っているのかをはっきりと知ることが必要ではないでしょうか。聖書が語っている「人数」についての真理に耳を傾けて、その後に神学的にそれを受け止めて展開して行くべきでしょう。

 

 「人数」についての教え

 これほど教会を担っている人々に気にされている「人数」の問題ですが、これについて書かれているキリスト教書が意外なほど少ないことに気づかされました。

 この課題について、真正面から取り上げて、聖書に即して論じている書物がどれだけあるでしょうか。

 「人数」を神学的に論じている書物がどれくらいあるでしょうか。

 「人数」をどう解釈するべきか、教えてくれる書物がどれだけあるでしょうか。

 「人数」についてなにを信じればいいのか、はっきりと聖書から示してくれる本がどれだけあるでしょうか。

 教会形成を担っている者がだれでも気にしている大切な問題でありながら、なぜこれほどまでこの課題は放置されているのでしょうか。「人数の神学」、「人数の解釈原理」、「人数の聖書的理解」があってしかるべきだと思います。

 この小著は、「人数」の問題を、まっすぐに聖書から取り上げることを試みています。まことの小さな冊子に過ぎませんが、できるだけ本質的なところに簡潔に触れることを目指しています。教会を担っている方々のお役に立てますならば、幸いに存じます。

 なお、本冊子で語られている「人数」について、著者の念頭にあるのは聖書が語っているところの「人数」です。つまりは神の民である教会の人数、礼拝者の人数のことです。

 経済学的・社会学的・統計学的な意味での「人口論」のことはまったくここでは考慮されていません。ここで論じているのは、あくまで、宗教的・信仰的意味における「人数」であることをご理解ください。

 上記の諸学問の結論と本冊子はもちろん違うところがあります。それは扱っている領域の違いによるものであることをご了承いただきたいと思います。

 

 

 

第一章 神の祝福と「人数」

 

 創世記が語る「祝福」

 聖書の最初の書、創世記を読み始めると、すぐに「祝福」という言葉が出てきます。

 創世記1:22「神はそれらのものを祝福して言われた」

 創世記1:28「神は、彼らを祝福して言われた」

 この二つのうち、前者は「生き物」に対して向けられており、後者は「人間」に対してです。生き物と人間に、神が祝福を告げておられます。

 そして、「祝福」の内容を見てみますと、そこには両者に共通する言葉として、「産めよ、増えよ」という言葉があります。「祝福」の内容は、「増える」ことなのです。

 このことは、族長の物語にも受け継がれていきます。創世記12章でアブラハムを神が選ばれる箇所があります。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」とあります。アブラハムからイスラエルの民が生み出されること、つまりアブラハムの子孫が増えることが祝福とされています。

 そののちも、神がアブラハムと契約(創世記17章など)を結ばれたとき、アブラハムが試練を受けたとき(創世記22章)に、神は改めてアブラハムの子孫を「増やす」ことを約束されます。さらに、アブラハムの子孫であるイサクやヤコブ、ヨセフに対しても、この約束は受け継がれていくのです。

 創世記においては、「祝福」とは「神が人数を増やす」ことです。これは、「人数」についての第一の原則になります。人が「増える」ことは祝福なのです。

 

 レビ記、申命記の「祝福と呪い」

 創世記だけではありません。申命記には、神の祝福によってイスラエルの民の人数が増えたことを語る箇所が多くあります。モーセ五書全体を通して、このモチーフは繰り返されて行きます。モーセ五書は、神がアブラハムに約束された祝福が、実現していく過程を描いているのです。

 レビ記、申命記を見ると、「祝福と呪い」(レビ26章、申命28章)が告げられる箇所があります。ここを見ると、非常に多様な「祝福」と「呪い」が語られています。その根本にあるのは、「祝福」とは「増える」ことであり、「呪い」とは「減る」ということです。

 もちろん、祝福と呪いということは「人数」にだけ関係するものではありません。財産、農作業、健康、戦争、その他生活のあらゆる領域に関係してくる概念です。

 しかし、やはりこうしたすべての要素は、最終的には「人数が増える」か、「人数が減る」かに収斂されていきます。そこに祝福と呪いのしるしが顕されるのです。

 

 「祝福」の前提

 しかし、聖書を調べて行くと、神は無条件に祝福を告げてはおられません。そこには、祝福にあずかるための前提があるのです。

 創世記の1章では、無条件に生き物と人間への祝福が語られています。しかし、創世記3章を読むと、蛇のたくらみによって、アダムとエバは神のみ言葉に逆らう罪を犯して、楽園から追放されてしまいます。神への背信の罪によって、「無条件の祝福」という神の現実が失われてしまったのです。

 アブラハムが、神に祝福されているのは、なぜでしょうか。神はアブラハムのなにを認められたのでしょうか。創世記15章には、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。アブラハムのうえに神の祝福が実現しているのは、彼の信仰のゆえなのです。

 神はもともと、人間を無条件に祝福されている存在として創造されました。しかし、人間の罪がその祝福を打ち壊して、神の祝福から自らを切り離してしまいました。そこで、神はアブラハムをお選びになって、人間はただ信仰によって神の祝福に改めてあずかる者となることをお示しになったのです。

 つまり、祝福されることの前提は、神への信頼・信仰であり、これがなければ人間は祝福にあずかることができないのです。

 

 「祝福」と「信仰」

 それでは、祝福の前提となる信仰とは、いかなるものでしょうか。

 創世記22章を見ると、まさにその点がはっきりと描かれています。

 アブラハムは神から試練を受けて、息子のイサクを焼き尽くす捧げものとして神にささげるように求められました。

 アブラハムにとってイサクは、「祝福」の担い手そのものでした。もはや不可能と思えていた、子供が与えられるということが実現したのです。イサクの姿のうちに、アブラハムは将来の神の民を、幾千幾万の民を見つめていたでしょう。

 それにもかかわらず、神はそのイサクを殺して捧げなさい、というのです。なんという矛盾でしょうか。神がアブラハムを祝福されて与えてくださったイサクを、また返しなさい、というのです。神ご自身が、神の約束に矛盾することをおっしゃっているのです。

 しかし、アブラハムはこの神の命令に黙々と従います。イサクをつれてモリヤの地の山頂に行き、イサクを殺そうとナイフを振り上げるのです。そのとき、天から神の言葉が与えられ、アブラハムが神に従うものとして自らを示したので、アブラハムの子孫は天の星のように、海辺の砂のように増やそう、という神の約束が改めて告げ知らされます。

 ここに、アブラハムの示した信仰がどういうものかが明らかにされています。アブラハムは、「神ご自身」と「神から受けた祝福」のどちらかを取るのか、決断を迫られたのです。イサクはアブラハムにとって最愛の存在でした。しかし、その最愛の者よりも神を愛し、神を第一とするのか、そこが神によって問われたのです。

 つまり、祝福を受け継ぐための前提となる信仰とは、自らが受ける祝福(財産、知識、地位、力、異性、家族など)よりも神ご自身に従うことを求め、神を第一の存在、最愛の存在として信頼し、愛して行く、そういう信仰のことなのです。「神ご自身」をひたすらに求める信仰、それが祝福を受け継ぐ信仰なのです。

 

 「祝福を求める信仰」

 こうした「神ご自身を求める信仰」と違うのが、「祝福を求める信仰」です。

 前者においては、「私が求めているのはただ神様です。神様が自分のことをどう扱われようと、神様を信じます」というものです。

 しかし、後者は「私は祝福されたいのです。そのために神様を信じています。神様が祝福してくださらないなら、神様は信じられません」というものです。

 つまり、第一に求めているのが「神」なのか、「祝福」なのか、という違いです。前者は祝福はただ信仰に伴う結果に過ぎません。しかし、後者では神ご自身が祝福されるための手段に過ぎないのです。

 アブラハムが祝福を受け継ぐ者とされたのは、前者の意味での信仰を与えられていたからです。後者の意味での信仰は、ご利益信仰そのものです。それは真実の意味での信仰ではありません。

 こうしたご利益信仰は、聖書的な意味での信仰ではないので、神の約束を受け継ぐものとはなりません。

 聖書において信仰とは、神ご自身を求め、神ご自身を信頼し、神ご自身を受け入れるものです。「欲しいのは祝福であって、神はそれを得るための便宜です」というような信仰は、聖書の言うところの信仰ではありません。

 

 不信仰がもたらすもの

 神に祝福されて、人数がいかに増えていたとしても、もしそこに不信仰が生じるならば、祝福は呪いに変えられます。

 祝福にあずかるのか、呪いを受けるのかを分けるのは、信仰の有無とその実質によるのです。

 レビ記や申命記が「呪い」について語っているとき、その呪いの理由として「神の言葉を聞かず、従わないこと」をあげています。神のみ言葉への信仰と服従がないところでは、呪いがある、というのです。

 「神ご自身を求める信仰」とは具体的には、「神が語られる言葉を聞いて信じ、それに従う」ということです。神の言葉に集中し、み言葉を生活のなかに血肉化していくあり方そのものです。

 そして、「呪い」は「人数が減ること」に収斂する、と書きました。イスラエルの人数がいかに多く、星の数のようであっても、そこに不信仰が生じるならば、祝福は呪いになってしまうのです。

 これからの章でも何度か取り上げますが、サムエル記下24章と歴代誌上21章に、「ダビデの人口調査」が描かれています。そこでは、ダビデが自分の民の数が知りたい、と言います。このダビデの願いは、高慢な心に根ざしたものでした。神を信頼するよりも、民の数を知ることで、軍事力と財政力を知ろうとしたのです。つまり、神ご自身よりも、自らの国力により頼もうとしてしまったのです。

 このダビデの罪に対して、神は裁きをなされます。これにより、非常に多くのイスラエル人が神に打たれて死ぬことになるのです。

 この物語が描き出すように、ダビデが一筋に神を求め、神を信頼していたときには祝福されていましたが、そこから逸脱して神への不信頼と、悪い意味での自己信頼に陥ったときに、祝福は呪いに変わり、民が神によって減らされてしまうということが起こったのです。



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