聖書を体得し、神を体験する

~実践して「わかる」キリスト教入門~

 

 

 

目次

 

 

第一章 不和

 

第二章 招待

 

第三章 信頼

 

第四章 放棄

 

第五章 服従

 

第六章 赦罪

 

第七章 受難

 

第八章 栄光

 

 ※聖書は『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)から引用させて頂きました。

 

 

 

 序

 「聖書入門」「キリスト教入門」という言葉で、インターネットの書籍サイトを検索してみたことがあります。すると、両方のワードでそうした関連の書物が80冊以上ありました。80冊までは数えてみましたが、あまりに多いのでそこでやめました。

 日本では、聖書やキリスト教への「入門」についての書物は実に豊かです。テキストはあふれるほどあります。しかし、キリスト教への実際の「入門者」は、それとまったく対照的に、非常に少ないのが現実です。地方の教会だと、洗礼を受ける人は一年に一人いれば、恵まれていると言えます。何年も洗礼を受ける人がいない状態で経過することもまれではないのです。

 キリスト教の「入門書」は多い。しかし、「入門者」は少ない。なぜでしょうか。

 いろいろな入門書に目を通してみると、多くの本が「キリスト教への誤解を解き、アレルギーを取り除き、聖書を理解できるようにする」という共通点があるように思います。つまり、キリスト教という日本人にとっては非常にわかりにくいものを、理性的に「納得」できるように説明することがキリスト教への入門となる、という考え方が背景にあるように思います。これはよく理解できることです。キリスト教は日本の伝統的な世界観からすると、誤解をしやすい部分が多々あるからです。ですので、こうした入門書を広めるというのは大切な働きであると言えると思います。

 しかし、多くの方々は聖書やキリスト教について、入門書を読んである程度「納得」はしても、それ以上の深いところになかなか入って行くことができません。多くの人は、特に心に触れるものがなければすぐに去って行ってしまい、戻ってくることはありません。

 なにか、大切なものが欠けているように思えてなりません。一人ひとりが「消費者」としての態度から「入門者」へ、そして「受洗者」へと歩んでいくために、なにが必要なのでしょうか。

 そもそも、聖書を読んで「わかる」ということは、「理性に照らして納得できる」ということだけではないのではないでしょうか。聖書が本当にわかるということの意味は、聖書が語っている世界を自分で体験し、体得するということにほかなりません。理性の地平で納得したとしても、聖書が語っている喜ばしい神の世界について、目が開かれて自分で味わうということがないなら、それは本当にわかっているとは言えないのです。「納得」という頭の中の観念の世界を突破して、「体得」という事実と経験、生活の世界に突き抜けない限り、本当に聖書が「わかる」ということにはならないのではないでしょうか。

 聖書を読むということは、もちろんその言葉の意味を納得するということもありますが、それにとどまるものではないのです。むしろ、その納得したところを「体得」して、その言葉の力を自分自身の生活や現実のなかで「体験」していく。そこに打ち開かれる新しい世界に感動し、人生の原動力とされていく。そういう形で、私たちの肉体を備えた現実の奥深くにまで浸透していくものです。そこまで「突破」できたとき、その人はもはやキリスト教入門書の消費者ではなく、神の世界への入門者に変えられているのです。

 一つのたとえですが、聖書に描かれていることを「納得」するというのは、リンゴを食べるときに、「リンゴがどういうもので、どう食べるのか」を理解したということです。ある意味においては、それがわかったことで食べるための準備ができたのです。

しかし、準備だけしてリンゴを実際に食べることがないならば、リンゴの本当のおいしさ、素晴らしさはわかりません。「リンゴがどういうもので、どう食べるのか」ということがわかるという準備をへて、実際に皮をむいて切って、リンゴを食べて味わい、自らの肉体をもって体験する、体感するということが必要です。そこで初めて、リンゴが備えている本当のかぐわしさ、素晴らしさ、おいしさを知るのです。後者の意味での「知る」ということは、一つの現実として自らの肉体をもって味わったという意味です。それに対して前者は、ただ言葉や観念や情報として知った、ということです。知ることのレベルがまったく異なっているのです。後者の場合には、肉体にまでしみとおるような形で、リアリティに触れたということであって、これが本来の「わかる」ということなのです。

聖書そのものが、このように告げています。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブの手紙第1章22節)

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイによる福音書第7章24~27節)

この言葉が示しているのは、聖書をただ情報や知識として理解して納得できるというだけでなく、聖書に書かれている真理を、肉体をもって経験して味わい知る、ということでしょう。そうした全人的な意味での「わかる」ことが聖書自身によってうながされていると言えます。

 多くの入門書は、リンゴはどういう果物か、どんな食べ方かを教えてくれますが、それを実際に食べるように導くところまで、なかなか届かないのではないでしょうか。本書は聖書というリンゴを実際に味わい、その素晴らしさを「体得」「体験」していただくための手引きです。本書も他の入門書と同じように「言葉」や「情報」であるので、ただ読むだけではあまり意味がありません。信仰生活の実践的な契機を取り上げて、読者がご自身でその主題を「実践」していただくように、導いていくのが一つの特徴になります。

以下の章で書かれていることは、自分自身の生活のなかで「体得」し、「体験」してこそ価値があります。書かれていることを自分でやってみて、その結果を自ら味わう必要があるのです。本当に聖書の恵み深い現実のなかに入りたいと願っている方は、本書に書かれていることを思いめぐらし、そして生活に取り入れてください。そうでないならば、本書もまた結局のところ理性の面での「納得」をもたらすだけのものとなり、無意味なものになってしまいます。

 多くの入門書は、教会生活や教会で語られている教理を中心にまとめています。しかし、本書は神を信じる人が経験する内面的な部分に焦点を絞っています。通例の入門書とは異なるもので、教会生活を実際に送るための手引きという性格のものではありません。

むしろ、教会生活をしているそれぞれの人の内面で、どんなドラマが繰り広げられているのか、それぞれの魂に流れている物語やリアリティ、心のダイナミクスといった面に着目し、そうしたところを読者の皆様が体験できるように、お招きしています。キリスト教を実践するときに、どのような力学が心に働くようになるのか、どのような内面的なストーリーを生きるのか、そのことを描き出しています。

ある部分については、「ここは自分にも心当たりがある」と思われるかもしれません。他の部分については「これは経験したことがない。実感が湧かない」と感じられるでしょう。しかし、そうした部分も、実践が深められていくなかで、後から経験したときに「あの言葉はこういうことだったのか」と思われることがあるでしょう。神を体験することがどういうものか、ぜひ言葉を通して納得するだけでなく、ご自身の生活のなかで味わい、経験してください。

本書には「納得」できないところもあると思います。しかし、そのときでもぜひ「実践」していただき、ご自身で「体験」してみてください。やがて本書の内容と心とが「通じ合う」ところが出てくることを信じています。

 読者の皆様が、本書を通して聖書の奥深い信仰の実践の次元に目覚めて、素晴らしい神の恩寵の世界を体験していくことができますよう、心よりお祈りしています。

 

 

 

 

 

第一章 不和

 

 心の貧しい人々は、幸いである、

  天の国は、その人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節)

 

 なぜ、人は神を信じるのでしょうか。

 教会に通う人々は、なぜ教会に毎週来て、神を求めるのでしょうか。

 個々人によってさまざまな理由があります。ある人は病気によって自分の命の限界を感じて、その限界を超えるなにかを求めます。別の人は、息子や娘が思うように育たず、悩み苦しんで神に平安を求めます。また別の人は、勤務していた会社が倒産してしまい、人生の拠り所を求めて教会に来ます。

 一人一人に、魂の叫びや、涙や、暗闇の時間があり、そのなかで解決を模索し、神を求めるようになります。

 しかし、神を求める動機は突き詰めていくと、「不和」ということに集約されてくるのではないでしょうか。

 神をまったく求めず、必要としない人は、自らが経験している現実や周囲の人々、もしくはこの世というものと、かなりの程度調和しており、自分自身と、自分の歩んでいるリアリティとが葛藤したり、動揺したり、対立したりしていないのです。仮にしているとしても、自分の力でコントロールして、解消できる程度の不和なのです。

 学校でストレスを受けても、家でゲームをして解消できる。職場で悩んでいても、信頼できる人に相談して、なんとか乗り越えていける。家庭が多少荒んでいても、ガス抜きしながらなんとか忍耐していくことができる。

 もし状況がそうであるなら、神を求める必然性はどこにもないでしょう。こうした人に「神を信じませんか」と言っても、「いえ、結構です。わたしは今満たされているので、神を必要とはしていないのです」と答えるでしょう。自分を取り囲むリアリティと調和しているときには、人の心は仲間のこと、家族のこと、仕事のこと、趣味のこと、会社のこと、そうしたことで占められているため、神を求める必要性もないし、神がその心にお住まいになることもできません。そこには、神のための余地がどこにもないからです。こうした人の心は、「豊か」なのです。心がいっぱいになっています。心がいろいろなもので余地がなくなるまで占められており、富んでいるのです。

 しかし、たとえばここに一人の会社員がおり、その心は非常に豊かです。家族に恵まれ、よい職場に恵まれ、信頼できる同僚がおり、生活は安定しています。ところが、その会社の事業が傾き始めたとき、同僚たちはいら立ちを隠さなくなり、職場は荒れてきます。減給が度重なるようになり、将来への不安が消えることがなくなります。親の不安感を子供は察知して、家族にも不協和音が生まれます。少し前までは平穏で幸せだったのに、今や世界が灰色になってしまっています。

 心は、平衡を保つことに全力を傾けます。このまま会社にとどまる方がいいのか、それとも辞職して別のことを始めるのがよいのか。そうしてもだえているときに、家族が病気で倒れます。疲れ果てていたのです。

 こうしたとき、人は「一体全体、どうしてこんなことになるのだ?」と問いかけます。こうした出来事の「意味」がわからなくなるのです。それまでの平穏無事な現実の全体が、実はこんなにももろいものだったのだ、と思い知らされるのです。

 心には、いろいろなものが詰まっていました。心を喜ばせ、楽しみで満たしてくれるような数々のものです。心に安らぎを与えてくれる家族、充実を与えてくれる会社、楽しみを与えてくれる仲間たち。これらの心の像が、急速に色あせて灰色になってしまい、心に対して痛みと労苦をもたらすものになります。

 心のなかから、そうしたいろいろな対象、いろいろな像に対する期待や求める気持ちが、消えていきます。そうしたものが心を支えてくれていました。それらが心にエネルギーを補給してくれていたのです。しかし今は、心を圧迫するものになってしまったのです。それらは心からエネルギーを次々に奪っていこうとします。心は自由になろうと、期待や執着を捨てざるを得ない地点にまで、追い詰められていきます。

 こうして、心がつながっていた力を与えてくれる対象が消えていくとき、「空白」が訪れます。心は、それまでさまざまなものの像によって占められていました。ところが、もうそれらが機能しなくなったため、捨てざるをえなくなったのです。

 自らが経験していたリアリティと調和していたときは、心はいろいろなイメージや像によって豊かに満たされており、富んでいました。ところが、今は空白、無、空虚、孤独を味わっています。自分を取り囲んでいた色彩豊かなリアリティが消えて、自分は砂漠のなかに水も持たずに放り出されている感覚に苦しめられているのです。

 こうした心が、冒頭に引用した聖句にあった「心が貧しい」ということなのです。イエス・キリストが「山上の説教」と言われる、最も有名な説教の最初にお語りになった言葉です。「心の貧しい人々」とは、まさに心がこの世や自分自身に対する像やイメージ、期待や欲求によって満たされることがなくなって、渇望、空虚、空白、孤独、虚無を味わっている、そういう心のことなのです。

 自分自身やこの世のことで心が満たされているとき、そこに神が入ってこられる場所はありません。そうした富んだ心、満ちた心は、神のことを聞くと逃げ出すか、無視するか、批判するかしかできません。

 自らが経験している現実のなかに不協和音が生じ、リアリティとの葛藤、不和、対立が表面化してくるとき、心は激しく揺れ動き、像やイメージは崩壊し始め、新しい変化が起こります。

 やがて心が虚しさを覚えてさまよい始めるとき、その心に向かってキリストは「あなたは幸いだ。天の国はあなたのものだ」と語りかけるのです。

 神を求めるようになるゼロ・ポイントがこの「心の貧しさ」であり、これを私たちのうちにもたらすのは、リアリティを揺り動かす「不和」なのです。

 あなたはどこに立っているでしょうか。ゼロ・ポイントにまで至っているでしょうか。そこまで落ちないようにして、頑張って持ちこたえているでしょうか。心のなかには、像やイメージ、期待などの崩壊が始まっているでしょうか。それとも、それらを保持しようとして必死になっているでしょうか。

 もしあなたの心がより空白に、より虚しくなっていくときには、つまり自分やこの世への期待、執着、欲求といったものが崩壊すればするほど、ゼロ・ポイントが近づいてきます。そしてそのとき、より一層イエス・キリストの「あなたは幸いだ。天の国はあなたのものだ」という言葉が、あなたの体のうえに現実化していくのです。

 大切なのは、あなたが自らの経験しているリアリティの揺らぎ、「不和」をどう解釈し、どう向き合うのか、ということです。

 あなたは、心にできてきた空白を埋めようと、必死になるかもしれません。

 新しい趣味を発見して、心の拠り所とする。

 新しい分野の学びをして、心を知識で満たす。

 新しい仲間を探して、自分の心を埋める。

 新しい仕事を始めて、改めて充実を求める。

 家族に尽くして、関係を改善しようとする。

 どれも大切なことですし、解決策としてふさわしいかもしれません。できることがあるなら、ベストを尽くしてそれに取り組むべきでしょう。なにもそれを妨げるものはありません。現実のほころびを、こうして繕うことができるなら、それもよいことでしょう。そうすることで乗り越えることができれば、それに越したことはないのです。

 しかし、それでも埋まらないものがあると感じているなら、これらによっても解消できない、「なにか」が心に残ることを覚えているなら、その「なにか」を埋めることができるのは、「神」だけです。聖書が語り伝えている神だけが、心の空隙をふさぎ、そこを生命のあふれる泉としてくだるのです。

 神があなたの心を創造されました。あなたの心を、神の愛で満たすためです。あなたの心に神ご自身の恵みが豊かに潤うことが、神の喜びであり、あなたの心が神の存在のみによって満たされることが、神ご自身のあふれる歓喜なのです。あなたの心に神が満ち溢れるとき、神がそれを最も喜ばれ、その打ち震える喜びはあなたの心を完全に満たし、欠乏と空虚さは消えてしまいます。

 神に満たされ、神の存在に溢れた心から湧き出てくるあらゆる行為と働きは、ただ神の御心を実現するものとなるのみです。神の慈愛と正義は、こうした心から湧き出る働きを通して、この世に新しい夜明けの光のように輝くのです。

 人間の心は本来そのようなものであり、神によって栄誉が与えられたものであったはずでした。ところが、その心が神でないものの像やイメージによって占められ、満たされてしまったため、神はもはやその心を通して輝くことがおできにならなくなっていたのです。

 そうした心をご自身の臨在と満ち溢れた世界に取り戻すために、神ご自身が計画され、働きを執行なさいました。それが、リアリティの不和であり、私たちが生かされている生活のただなかで、この世の価値や意義が崩壊して、灰色になってしまうことなのです。これは、神の過酷な取扱いに思えるでしょうし、事実そうかもしれません。しかし、神の愛の裏返しでもあるのです。神が心を取り戻し、その心にお住まいになるためには、その心に余地を創造しなくてはなりません。神の場所を空けるためには、そこにあるものを外に出さなくてはならないのです。

 イエス・キリストはエルサレムに入城されたとき、そこで商売をしていた人々を神殿から追い出されました(マルコによる福音書11章15節以下、他)。これは、キリストの乱暴で無慈悲な行為に思えますが、それがかえってキリストの愛の発露にほかなりませんでした。人間の心という神殿から、この世の思いという「商人たち」が追い出されることで、そこは神の家となり、祈りの家となり、ただイエス・キリストがお住まいになる喜びの神殿になるのです。

 自分が経験している不和をこのように、神がご自身の住まいを創造されるための働きとして理解するのか、それとも別のなにかとして考えるのか。

 あなたが神を信じて受け入れ、自らの心が神に満たされるように祈ったとき、その心がどんな感情を覚えるのか、どんな思いになるのか、どんな感覚に満たされるのか。そのことをぜひ味わってください。ここに書かれていることが本当かどうかは、あなたがそのことを自ら味わうことによってしか、わからないでしょう。自分自身で、経験してみてください。神が心を満たされる味わいを。それは天の蜜のような味であり、その温かさと喜びは、この世のどこでも味わうことができないものです。

 あなたの現実は、不和のなかにありますか。心は貧しく、空白と孤独に苦しんでいますか。

 それなら、こう祈ってください。「主なる神よ、私の心にお住みください。私の心をあなたの存在で満たしてください。私の心をあなたの神殿とし、あなたの家としてください」

 そのとき、灰色の世界が新たな色彩に包まれるのを、あなたは自らはっきり見ることになるでしょう。



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