過去と和解して自信を取り戻す「感謝」のレッスン

 

 目次

 レッスン1 失った自信を取り戻すために

 

 レッスン2 過去に「ポジティブ」を発見する

 

 レッスン3 過去を形作る人々に感謝する

 

 レッスン4 自信が切り開く新しい将来

 

 レッスン5 過去と和解して自信を取り戻す信念

 

 あとがき

レッスン1 失った自信を取り戻すために

 

 人生がうまくいかない最大の理由

 「勉強しようにも、意欲が湧いてこない」

 

 「好きな人がいても、どうしてもよい関わりを持てない」

 

 「仕事を成功させたいのに、不思議なくらい努力が続かない」

 

 「人間関係をいつも同じパターンで壊してしまう」

 

 「いつも同じ問題に追いかけられ、苦しめられているように思う」

 

 「自分の人生を向上させようという気力が湧かない」

 

 「自分には根本的に価値がないと感じる」

 

 「いつも孤独感と不安があり、これらの感情から一向に抜けだせない」

 

 「特定の人に対する恨みや憎しみがなかなか消えない」

 

 「いつも周囲の人々を見下して優越感を得ようとしてしまう」

 

 「誰かに対して過剰に依存的になってしまう」

 

 

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 人間は弱い存在です。

人間そのものが持っている限界や弱さをなくそうとしても無理があります。

私達の体格だとか性格だとかは、なかなか変えることはできません。またその人が醸し出す雰囲気や精神的な気質といったもの、こうしたところにまつわりついている弱さもありますが、これもかなり変わりにくいものです。

こうしたものは、仮にそれが弱さだとしても、変える必要はないのではないでしょうか。これらは私達が持っている「個性」なのですから、それぞれがその個性を受け入れ、感謝して喜ぶことができるように考えていけばいいものでしょう。

こうした弱さが、人の人生に対して大きな害を及ぼすことも、ほとんどありません。これらは、生涯に渡って「お付き合いしていく」性格のものであって、「削除しなくてはならない」ものではありません。

 しかし、こうした私達が生来持っている個性にまつわるものではない弱さ、人生をうまくいかなくさせる、不自然で人工的な弱さというものもあります。これは私達が成長する過程で私達のうちにできてしまう、まったく後天的で不自然な弱さです。

 生来の弱さというものは、あまり日常生活や人生そのものに支障を来らせるものとはなりません。しかし、後天的に作られてしまう、不自然な人間性の弱さは大きな害をもたらします。

最初に掲げたいろいろな例を御覧ください。あなたの人生にこれらがかなりの程度該当しているのならば、もしかしたらこうした弱さが症状となって人生に出て来ているのかもしれません。

 それでは、この「弱さ」とは一体なんなのか。

それを一言で表現すると、「自信のなさ」であると言えます。

 自信とは、「自分への評価において、自分には価値と尊厳があるとする信念」です。

 自分で自分を評価するときに、無条件かつ単純に、「自分には価値がある」と信じている、それが自信です。

 自分で自分を高く評価できる、という心があれば、日常生活にとってどんな意味があるでしょうか。

 たとえば、自分にとってダメージを受けるような手痛い出来事が起こっても、自己評価が高いならば比較的早く立ち直って、「自分はこのダメージを必ず乗り越えることができる」と信じて問題に取り組むことができます。すぐに失敗や困難から立ち上がって行くことができます。何年にもわたって失敗を引きずって、くよくよするようなことはありません。

 自己評価が高ければそれだけ「自分はよりよい仕事、学び、働きができるはずだ」と自然と信じますので、自己向上に無理なく取り組めるようになります。だから、努力も継続されて実際に成果をあげやすくなります。

 人間関係においても、自己評価が高ければ人に依存的になったりはしません。自分の内に安定感があるので、誰かに依りすがってその人に自分自身を立ててもらう必要がないからです。独立した尊厳ある存在として、歩むことができます。

人に対する関わりにおいても、消極的にはなりません。自己評価が高ければそれだけ人に対して心を開いてコミュニケーションできるので、信頼関係も築きやすくなります。友人や知人の人間関係のネットワークも、広げやすくなるでしょう。人間関係も、壊れにくくなります。

 自分で自分を肯定し、高く評価し、自分の価値を信じることができる、これが「自信」なのです。この自信がないことが、様々な人生問題を生みだしていきます。

 

 「自信のなさ」の症状

 上記の事柄を全部ひっくり返せば、自信のなさがどういう症状となるのか、示すことができます。

 失敗したり困難に出会うと、それをいつまでも引きずったり、うまく乗り越えることができずに落ち込み続けてしまう。

 学びや仕事の面でも、自分の価値を信じられないので意欲や気力がわかず、なかなか成果をあげられない。

 人間関係でも人に心を開くことができないので、不安や孤独感がいつもある。だれかに対して依存的になってしまう。もしくは、人を見下すことによって安心感や自己重要感を確保するようになってしまう。

 人に自分の評価を高めるために自分のすばらしさについて、いばり散らしてしまう。周囲の人皆に疎まれるようになってしまう。

 こうした事柄があまりに先鋭化すると、「人格障害」と言われる症状になっていきかねません。日常生活に明確に破綻をきたすような、重大な状態にまで発展しうるものです。

 「自信のなさ」があまり進んでしまうと、人生全体を崩壊に導きかねない、それほどの破壊的な力として猛威を奮うことになってしまうのです。

 自分の価値を信じることができない「自信のなさ」こそが、人生をうまくいかなくさせる根のところにあるのです。

自分で自分を尊重し、高く評価することができないので、人生全体が不安定化してしまうのです。人生の安定感とは、「自信の有無・高低・強弱」によるところが大きいのです。

 

 「自信」と「傲慢」

 「自信が大事だ」と言われることに、違和感を抱いている方もおられるでしょう。「自信がある」というのは、「傲慢である」ということと重なり合うことに思えるからです。

自信に満ちあふれた人物を想像するとき、「おれは誰よりもすごい人間なのだ」「おれほどこの仕事をうまくできるやつはいない」といったことを言い散らしている人を想像してしまうのです。

だから、「自信がある」ことは、むしろ悪いことなのではないか、ネガティブなことなのではないか、と思えるのです。自信があることで、かえって「謙遜さ」から遠ざかってしまうのではないか、と感じるのです。

「わたしって全然だめなんです。だれよりも弱くて無力なんです」と言っている人の方が、むしろ健全だ、と思えるのです。

しかし、「自信」と「傲慢」の両者はまったく異なるものだ、ということを押さえる必要があります。実は、前の例の威張っている人は、傲慢ではあっても自信があるわけではありません。

この両者は、どこが違うのでしょうか。

それは、自信は「自分で自分を評価している」のに対して、傲慢は「他人と自分を比較して、評価したときに自分を他人よりも上だとしている」点です。

 自信については、自分が自分に対して与えているものですので、そこにはなんらかのものとの「比較」ということはありません。無条件に、無比較に、単純素朴に「自分には価値がある」と信じる「信念」の一部なのです。

しかし、「傲慢」やその反対である「卑屈」の場合には、「他者と自分を比較して、自分の方が上だと認識してそれを自慢すれば傲慢となり、自分の方が下だと認識してそれを卑下すれば卑屈になる」という構造になっているのです。

つまり、「他者」の存在がそこには介在しており、特定の「他者」が基準となって比較がなされて、「傲慢」や「卑屈」は生じてくるのです。ここには「上下関係」がありますが、「自信」にはそうしたものはありません。

 だから、自信に満ちあふれていながら、傲慢ではないという人は存在するのです。むしろ、人が傲慢になったり卑屈になったりするのは、自信のなさの表れの一つです。自分の価値を信じることができないので他人との比較をするようになり、そこからこれらが生まれてくるのです。

 もう一つの違いは、自信は無条件のものです。

自分に対して自分で評価するわけですが、それはなんらかの「条件」に基づいていません。自信は「ただそう信じるからそうなのだ」としか言い様がないあり方なのです。

自分には価値があると信じる、だから価値がある、ということで、「自分にはこういうよい点があるから、こうした悪い点が少ないから、自分には価値がある」とったような条件や理由に基づかないで、単純素朴にそう「信じる」のが自信なのです。

 しかし、傲慢・卑屈については条件と理由によって成り立つものです。「この仕事については自分は人よりもできるから、人よりも偉いのだ」「自分は人より背が低いから、だめなのだ」など、なんらかの根拠や条件に基づいて生じてくるのです。他人と比較したときの自分の善い点、悪い点などから、出てくるものなのです。

 自信は無比のもの、無条件のものですが、しかし傲慢・卑屈は比較と条件の上に成り立っているのです。この両者は、まったく性格が違うことを知る必要があります。

 

 自信はどこから来るのか

 自信というものは、どこからくるのでしょうか。

 自分のことを素朴に価値があると信じることができる、そういう信念はどこで育まれるのでしょうか。

 これは、その人の成長過程において、と言うことができます。

 ある人が幼少期から成長していく過程で、自信が育まれて行く。これ以外に答えはありません。では成長過程というとき、具体的にはどういう場面なのでしょうか。

 最も大切なのは、幼少期です。これはほとんどの心理学者が主張しているところです。

 赤ちゃんは無垢な状態で生まれてきますが、すぐにお母さんの腕に抱きとめられます。「母親」こそが赤ちゃんにとっての絶対者なのです。「母親」から、まず赤ちゃんは究極的に重要な「自信」を受け取るのです。エリック・エリクソンという心理学者はこれを「基本的信頼感」と呼びました。人間の根底にある、人生全体の土台となる最も大切な自信です。

 いつでも抱っこしてもらえる、ウンチやおしっこをしたらおむつを換えてもらえる、お腹がすいたらおっぱいやミルクを飲ませてもらえる、ゆっくり眠らせてもらえる、といった母親による養育のなかで、この根本的な自信は育まれるのです。ここで赤ちゃんが受け取るものは、人生全体を支配するほどに絶対的に強力なものです。

母親は、まったく無条件に赤ちゃんのお世話をします。この母親の無条件の愛情とお世話に触れることで、人は人生で最初の土台となる自信を受け取るのです。もちろん父親も大切な役割を演じるものですが、生まれてからしばらくは、やはり母親が赤ちゃんにとって中心となる役割を果たすことになります。

 赤ちゃんが順調にお世話を受けて育っていくなかで、両親に笑いかけられたり、父親と遊んでもらったり、絵本を読んでもらったり、子供の求めるものが、両親によって満たされていきます。こうして、「両親との愛情関係」において、子供は人生の最大の土台となる自信を育まれるのです。

 小学校に入って以後になると、今度は「友達」や「先生」が子供にとって大切な位置を占めるようになります。友達や先生との関係のなかで、なんらかの活動をしたり、学びをしたり、といったことのなかで自信が育まれて行くのです。

 成人してからは、「仕事仲間」と共に自分が実際になんらかの社会的な仕事に取り組むことによって、自信を育んで行くことになります。仕事をうまく軌道に乗せて、成功へと導いて行くことによって、様々な形での「成功体験」を積み重ねることによって、自信は強められていきます。これがとりあえずは最終段階ということになるでしょう。

 

 「自信のなさ」はどこから来るのか

 以上のような成長過程のなかで自信が育まれるのだとすると、自信のなさが生じてしまう土壌も明らかです。

これらの成長過程のなかで、「愛情体験」のうちに「欠損」「トラウマ」が出てくる時に、自信のなさが心の内に出来てしまうのです。

 赤ちゃんのころ、どんなに泣いてもおっぱいをもらえなかった。ウンチが気持ち悪いのに、何時間も放置された。夫婦喧嘩の声で眠ることができない夜が多かった。一生懸命泣いて親を呼んでいるのに、半日もかまってもらえなかった。こうしたことが、愛情体験に欠損を生みだします。

 小学校のときであれば、先生に指されて問題を解いたけれども、ひどく単純なミスをして間違えてしまった。それをクラス中の友達に大声で笑われてしまった。

 青年時代、本当に好きだった人に愛を告白したら、残酷な言葉であしらわれ、振られてしまった。

 成人してからは、一生懸命努力して事業を始めて何年か頑張ったけれども、挫折して会社が倒産してしまった。

 しばらくは幸せな結婚生活をしていたのに、愛する伴侶に裏切られて、離婚に至ってしまった。

 こうした「欠損体験」「喪失体験」「失敗体験」によって、「自信」は大きく傷つけられるのです。愛してもらえなかった経験、大切なものを失った経験、大失敗した経験、こうしたものが自信を打ち砕き、人生全体を不安定化させる要因になるのです。

 

 二つの自信

少し整理をすると、上記の例においては自信には二種類あることが見てとれます。

 一つは、自分の「存在そのもの」に対する自信です。

自分という存在がどれくらい尊く価値のあるものか、それについての自信です。

もう一つは、自分の「能力」に対する自信です。自分の能力がどれほどのものか、ということについての自信です。

 「存在そのもの」についての自信は、「愛情体験」から培われます。両親にいつも「かわいいね。愛しているよ」と言われて育った。教師に認められ、誉めてもらえた。自分の必要とするところが、周囲の人の支えによって満たされてきた。

こうしたことによって、「自分の存在は尊く、価値のあるものなのだ」ということについての自信が強化されるのです。

 「能力」についての自信は、「成功体験」から培われます。

子供が絵を描いて、親に「見て見て!」と叫ぶと、親は「すごい! 上手だねえ」と誉めます。子供は満面の笑みを浮かべます。テストを受けたとき、クラスで一人だけ百点を取れた。部活動で野球をしているとき、ピンチの場面でヒットを打つことができた。会社での働きが充実して、自分の力で多くの利益をあげ、上司にも誉められた。

こうした「成功体験」を積み重ねることによって、「自分には力があるのだ。自分はやればできるのだ。自分はもっと大きなこともすることができるのだ」という形で、自分の能力への自信が高められていくのです。

 自信は、周囲の人に「愛してもらうこと」、なにかをやってみて「うまくいくこと」によって、強められるのです。

 

 「失った自信」の埋め合わせ

 成長過程のなかで、なんらかの「欠損」「失敗」体験によって、自信が損なわれたとします。

それでも、通常はその人がめげずに努力して行けば、そうした傷ついた自信というものは、どこか他の場面で埋め合わされていくものです。

 恋愛において、ある人に手痛くふられてしまっても、後で別の人と深く愛し合うことができたならば、前の傷というものは癒されていきます。

 クラスで大失敗して一時勉強が嫌いになった子供でも、別のときにだれも解けなかった問題が解けた、という経験で自信を取り戻すことができます。

 働きに一度挫折しても、別の働きを始めてうまくいけば、前の失望感は消えて行くのです。

 大抵の場合はこのように、一時自信に大きな傷を負ったとしても、後から「愛情体験」や「成功体験」が与えられることで、埋め合わせることが可能なのです。

 しかし、こうした埋め合わせが、うまく機能しないことがあります。

 子供の頃や青年の頃、なにか大きな欠損・失敗経験をすることで、「自分のうちに引きこもってしまう」ことがあるのです。つまり、そこから立ち上がって努力を重ねていけば、やがて埋め合わせできるものが、受けた傷の痛みにおびえて努力を放棄してしまうのです。

 こうして、自分の知識や技術を向上させたり、社会的な力を身に着けることをやめてしまうと、傷を受けた後で「愛情体験」や「成功体験」を重ねることが難しくなってしまうのです。

 家にひきこもってパソコンゲームばかりして過ごしてしまったり、空想の世界に耽溺して一時的な気晴らしのために漫画ばかり読むようになってしまったり、「人生なんてこんなもんだ」と考えてバイトばかりして、あとは暇を持て余して過ごすようになってしまったりします。また、自分が受けた傷の痛みばかり思い出して、抑うつ的な感情に閉じ込められて出られなくなったりします。

 こうして、「社会に貢献する」ための努力をなんらかの形で放棄してしまうと、受けた自信を取り戻していくことが根本的に難しくなってしまうのです。というのも、こうした状態になってしまったら、周囲の誰からも「愛情体験」を得られないし、「成功体験」を積むこともできなくなってしまうからです。

 こうした状態で時間ばかりが過ぎて行くと、社会的な技術や知識を身に着けていない状態で、どんどん歳を重ねてしまいます。

「自信」が根本的に失われてしまうと、もう人間関係を築くことも維持することも難しくなります。社会に適応することもできなくなります。すると、更に「愛情体験」や「成功体験」を重ねることから遠ざかって、悪循環のなかに落ちて行ってしまうのです。



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